『田所トメ子の事件簿:完走できなかった英雄』第3話
第3話 焦げたアスファルト
夏の太陽が、無慈悲なほど真上にあった。
アスファルトが白く光り、遠くの空気が陽炎のように揺れている。
石井タカシは息を整えながら、ランコースのスタートラインに立った。
自転車を終えた脚には、重たい疲労がまとわりついていた。
しかし、その顔には迷いがない。
濡れた髪を振り、サングラスの奥の瞳が真っすぐ前を見据える。
――ここからが勝負だ。
順位は五位。
それでも、彼の表情は“勝てる男”のものだった。
スタートの合図が鳴ると、
石井は地面を蹴り、一直線に走り出す。
「行け、石井!」
「負けるな、タカシ!」
沿道から響く声に応えるように、
石井は腕を振り、足を前へ突き出す。
汗が飛び散り、地面に落ちて蒸気を上げた。
旗やうちわを振って声援を送る中、ひときわ目立つのが黄色いシャツを揃えたおばちゃん応援団だ。
「タカシー!ファイトー、ファイトー!」
「もうちょっとよー、最後まで諦めるなー!」
「見せてー、その足さばき!あんたの走りが大好きよー!」
だが、アスファルトの上は過酷だった。
足をつくたびに、熱が靴底を通して伝わる。
息が焼けるようで、視界の端に白い光がちらつく。
それでも石井はスピードを緩めない。
「くそ……まだだ。ここで止まれるか」
唇を噛み、身体の奥に残った力を振り絞る。
まるで何かに追われるように、彼は走り続けた。
観客エリアのテントの下、
田所トメ子は汗を拭いながらドローン映像を覗き込んでいた。
「……なんだろう、このコース」
「どうした?」とケイジが聞く。
トメ子はタブレットを指差した。
「ランのライン、去年より外側にズレてる。標識の位置も微妙に違う」
「施工ミスじゃないか?」
「かもね……でも、わざとに見える」
その声には、かすかな緊張があった。
映像の中では、石井が坂を駆け上がっていく。
汗が背中を流れ、シャツが肌に張りついている。
そのフォームはまだ美しかったが、
足元には小さな異変が潜んでいた。
舗装の継ぎ目に、細かい小石が散らばっている。
それは太陽光で白く光り、まるで誰かが“そこだけ”撒いたように見えた。
トメ子は目を細めた。
「……こんな場所に、砂利なんてあった?」
「いや、舗装は新しい。普通なら滑らないように掃除してるはずだ」
ケイジが答える。
トメ子の心に、ざらりとした不安が走った。
だが、その正体を掴む前に――
画面の中で、石井が足を取られかけた。
ほんの一瞬のバランスの崩れ。
彼は咄嗟に体勢を立て直し、そのまま走り抜ける。
けれど、ペースはわずかに乱れた。
「……危ない」
トメ子の声が低く漏れる。
ケイジは眉をひそめた。
「石井選手、かなり無理してるな」
彼女は何も言わなかった。
ただ、画面の中の石井を見つめ続けた。
陽炎の向こうに揺れる背中。
その姿は、まだ英雄だった。
だが、焦げたアスファルトの上で、
確かに“何か”が、静かに崩れ始めていた。
坂道の頂点を越え、折り返しに差しかかる。
だが、異変は静かに忍び寄っていた。
コースの舗装が、わずかに歪んでいる。
小石が散らばり、足元の砂利が汗に濡れた靴底に貼りつく。
本来、滑り止めのために清掃されているはずの区間だ。
石井は気づかぬまま、加速した。
「まだ間に合う……!」
その瞬間――
ガリッ。
左足が小石を踏み、わずかにバランスを崩す。
右足で地面を支えようとしたとき、
重心が傾き、視界がぐるりと回転した。
「――っ!」
鈍い音が響く。
石井の身体が前のめりに倒れ、
アスファルトに肩と頭を強く打ちつけた。
観客のざわめきが一瞬止まる。
次の瞬間、悲鳴が上がった。
「石井選手が倒れた!」
「誰か! 救護を!」
カメラが一斉に向けられる。
選手たちが駆け寄るが、誰も彼に触れられない。
石井は仰向けに倒れ、サングラスが外れて地面に転がっていた。
口元がわずかに動いたが、声は出ない。
――その瞬間、沿道の黄色いシャツのおばちゃん応援団の声は一瞬止まった。
「タカシーッ!!」
「大丈夫なの!? しっかりしてー!!」
普段は笑顔で元気いっぱいに応援していた彼女たちだが、その声はもはや黄色い歓声ではなく、必死で叫ぶ悲鳴のように変わった。
一人は両手で顔を覆い、涙を浮かべながら「お願い……お願い!」と何度も繰り返す。
別の一人は旗を振りながら、転倒した方向に駆け出そうとしてスタッフに止められる。
沿道の他の観客もざわつき、悲鳴をあげる者が増える中、おばちゃん応援団は誰よりも取り乱し、泣きながら手を振り続けた。
「タカシー!起きてー!お願い、起きてー!」
「うちの誇りなのよ!英雄なのよー!」
その必死の声は、夏の灼熱と混乱の中にひときわ鋭く響き渡り、会場全体に緊張と恐怖を拡散した。
石井の転倒の現実が、彼女たちの心に一気に重くのしかかる――応援していた者が、最も心を乱される瞬間だった。
数秒遅れて、スタッフが駆けつけた。
救護用テントの方から担架が運ばれてくる――
……が、どこか動きが鈍い。
「酸素ボンベは?!」
「今、準備中です!」
トメ子は遠くからその様子を見ていた。
救護テントの位置が、去年よりも後ろに下がっている。
わずか数十メートルの差――だが、その距離が命取りになる。
「……なんで、こんな場所に……」
トメ子は息を呑む。
ケイジがドローンの映像を拡大する。
画面の中で、石井の周囲に人が集まり始めた。
スタッフが酸素マスクを当て、心臓マッサージが始まる。
その手つきは焦り、どこかぎこちなかった。
観客たちは祈るように手を組む。
「タカシ! 頑張れ!」「起きて!」
だが、返事はない。
汗と血が混ざり、アスファルトに黒い染みを作っていく。
時間が伸びていくようだった。
太陽の光が痛いほど強く、
蝉の声だけが響く。
やがて、救護スタッフの動きが止まった。
一人が、首を横に振る。
その場の空気が、凍った。
その小さな仕草が、会場全体に波紋のように広がっていく。
「……え?」
「うそ……でしょ?」
最初に泣き声を上げたのは、沿道で旗を振っていた少女だった。
やがてその声が合図のように、ざわめきが一気に爆発した。
「救急車! 誰か、すぐ呼べ!」
「中継カメラ、止めろ! 映すな!」
「主催者はどこだ!? 説明しろ!」
怒号、悲鳴、鳴り止まぬサイレンの音。
会場は一瞬で混乱の渦に飲み込まれた。
「……英雄が、倒れた」
誰かがそうつぶやく。
その一言が、人々の心に現実を突きつけた。
係員たちは必死にロープを張り、観客を押しとどめる。
MCの男性が震える声でマイクを握りしめるが、
「ただいま確認中です」という言葉は、誰の耳にも届かない。
ボランティアの一人が泣きながら手を口に当てていた。
救護テントの周りでは、誰もが立ち尽くしている。
選手の仲間が駆け寄り、石井の名を叫ぶ。
その声は夏空に吸い込まれ、どこにも届かない。
救護テントの中では、吉田タクマが顔を真っ青にして酸素ボンベを握りしめていた。
「ま、待って……おかしいな……ちゃんと圧、あるはずなのに……」
彼の手は震え、視線は誰とも合わない。
冷房の設定パネルが「28℃」を示しているのが、やけに目に痛い。
マスコミが駆け込み、スタッフが制止する。
救護テントの外では、高橋アヤカがスマホを耳に押し当てていた。
「すぐに、スポンサー対応の声明を! “熱中症によるアクシデント”で統一してください!」
声は冷静を装っていたが、唇の端がわずかに震えている。誰もが自分の責任を恐れ、誰もが「これは事故だ」と言い聞かせようとしていた。
コース設計担当の佐藤マサルは、腰に手を当てたまま呆然と立ち尽くしていた。
地図の端に書き込んだ“簡略ルート”の線を思い出し、額から汗が伝う。
「まさか……あの曲がり角、あれで……?」
浜辺では、通りすがりのボランティアが泣き崩れ、
小川ミナはその隣で、自分の指先を見つめていた。
口元に手を当て、震える指先を見つめる。
「まさか……私のせいじゃ、ないよね……?」
誰にも聞こえないほどの声でつぶやき、
一方、山田ヒロトはまだゴールに向かっていた。
ハンドルを強く握り、石井タカシがいないコースの静けさに違和感を覚える。
(なんだよ、石井。俺の後ろ姿、ちゃんと見とけよ……)
まさか、その“英雄”がもう立ち上がれないとは、夢にも思っていなかった。
トメ子は、帽子を胸に当てて静かにその光景を見つめていた。
夫のケイジが、ドローンのカメラをそっと下げる。
トメ子はそんな中、ひとりだけ動かなかった。
目を細め、海の方角をちらりと見る。
波打ち際に残る赤い浮き輪。
少しずつ風に押されて、砂の上を転がっていた。
「……あのときから、何かがずれていたのね」
その言葉を誰に聞かせるでもなく、
トメ子は静かにメモ帳を開いた。
ページの一番上に、こう書き込む。
『水泳』『自転車』『ラン』『救護』
すべてが少しずつおかしい。
夏の午後。
熱気の中に漂う静けさが、異様に重たかった。
トメ子は帽子を取って、黙って頭を下げた。
ケイジも、言葉を失っていた。
「……完走、できなかったのね」
その声は、波音のように静かだった。
石井タカシ――
町が誇る英雄は、最後の直線を走り切ることなく、
真夏の空の下で、静かに息を引き取った。
次回予告
第4話「五人の影」
ナレーション:
「事故として処理されるはずだった石井タカシの死。
だが、トメ子の記憶に刻まれた“五つの違和感”が、一つに繋がり始める。
それぞれの区間で動いていた、五人の影――」
テロップ:
田所トメ子の事件簿《完走できなかった英雄》
第4話『五人の影』
登場人物
田所トメ子
主婦探偵。観察力と推理力で小さな違和感を見逃さない。事件現場では帽子を深くかぶり、真剣な眼差しで調査を進める。
田所ケイジ
夫。ドローンやスマホで現場を撮影し、証拠収集をサポートする。意外に機械音痴でドジを踏むことも。
田所ユキ
娘。大会の公式アナウンスを手伝うボランティア。表向きは元気だが、裏でメモ魔。選手やスタッフの細かな動きを記録している。
石井タカシ
町の誇るエース選手。今回の大会で優勝候補だったが、水泳区間で命を落とす。爽やかな人気者だが、一部の人間には反感も買っていた。
山田ヒロト(ライバル選手)
石井に勝てないことに苛立ち、自転車区間で妨害を仕掛ける。
小川ミナ(芸術肌の市民ランナー)
「競技は美しくあるべき」という独自哲学から、ランニングコースに不自然な細工をする。
佐藤マサル(大会スタッフ)
コース設営やルール説明を担当。表向きは冷静だが、石井と過去に確執がある。
高橋アヤカ(スポンサー担当)
成績が企業広告に直結するため、石井の存在が邪魔に。大会後援企業の利益を最優先に考えている。
吉田タクマ(救護スタッフ)
医療知識を悪用し、石井の死亡を「事故死」に偽装する。
刑事
おばちゃん応援団
石井タカシのおっかけ。彼の雄姿を一目見ようと沿道で選手を応援する町の名物おば ちゃんたち
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