『明智小誤郎と魔曲の美女 赤き旋律の惨劇』第1話
『明智小誤郎と魔曲の美女 赤き旋律の惨劇』
美貌の裏に潜む狂気、旋律が導く死の舞踏
----------------------------------
登場人物
明智小誤郎:自称探偵。突拍子もない推理で周囲を混乱させることが多いが、どこか憎めない性格。偶然とも必然とも言える形で、物事の真相に辿り着くことがある。
小塚仁子:魔曲の美女。舞台では鮮やかな赤い衣装を纏い、観客を魅了する。あらゆる楽器を自在に操る才能を持ち、彼女を中心にさまざまな人間模様が交差する。
久我弘道:仁子の元師匠で、影のある人物。過去の経験や知識から、物語の中で重要なアドバイスや助言を与えることがある。仁子との関係には複雑な感情が絡むが、常に静かな存在感を放つ。
杉本修一:音楽雑誌の若手記者。好奇心旺盛で、事件や人物に関する情報を追い求める。
黒木警部:刑事で、冷静かつ堅実な人物。小誤郎の奇怪な推理に頭を抱えることもあるが、経験と理論で状況を整理し、事件の全体像を見極めようとする。仁子や他の登場人物とも適度な距離を保ちながら関わる。
藤村信三:楽器商社の社長。物語の冒頭で関わる人物の一人で、事件のきっかけとなる存在。表向きは社交的だが、背景にはさまざまな事情がある。
矢田俊哉:作曲家。独自の感性と技術を持つ人物で、物語の中で重要な接点を持つ。周囲との関係性に微妙な緊張感を生むこともある。
三浦礼子:ピアニスト。華やかな舞台に立つ一方で、周囲の人物と密接に関わり、物語の流れに影響を与える。
玉置絵里:仁子の衣装デザイナー。個性的で目立つ言動をとることがあり、周囲から疑われることもあるが、意図や真意は謎に包まれている。
相馬貞夫:ホールの支配人。興行の成否に強い関心を持ち、仁子や関係者と複雑なやり取りを行う。
長谷川文子:仁子のライバル。彼女を中傷し続けるが、表面上は礼儀正しく振る舞うこともある。仁子との関係が物語の中で緊張感や競争心を生む。
---------------------------------------------------
第1話 赤衣に響く死の和音
――世に「魔曲の美女」と呼ばれる女がいる。
名を小塚仁子。赤衣をまとい、ヴァイオリンからピアノ、果てはフルートに至るまで、あらゆる楽器を自在に操る稀代の音楽家である。
だが、彼女の真に恐るべき所以は、その技量の高さだけではない。
曰く――彼女が舞台に立つ時、必ず殺人が起こる。
仁子が奏でる旋律は、人の魂をかき乱し、肉体をも滅ぼすのだと囁かれている。
無論、馬鹿げた迷信に過ぎぬと笑い飛ばすこともできよう。だが、我が明智小誤郎、この目で確かめもせずに「嘘だ」と切り捨てることはできぬ。
「よし、この耳と眼で直に検証してみようではないか」
彼はそう呟き、東京・青山の新築ホールへと足を運んだのである。
――さて、そこで目にしたものは、世にも妖しく赤く燃え上がる女の姿であった。
――楽の都、東京青山。その一角に新築された白亜の音楽殿堂は、この夜、異様な熱気に包まれていた。
開演の一刻ほど前。ホールのロビーには、すでに多くの来賓たちが集い、グラスを傾けながら談笑の輪を作っていた。
その中央でひときわ目を引くのは、恰幅のよい中年紳士――大楽器商〈藤村楽器〉の社長、藤村信三である。
銀の懐中時計を片手に、彼は落ち着かぬ様子で人波を見回していた。
「やあ、藤村さん。今夜も盛況ですね」
声をかけたのは新聞社の若き記者、杉本修一であった。まだ二十代の青年だが、その眼光には異様な熱が宿っている。
藤村は笑いながらも、どこか探るような目で相手を見た。
「おお、杉本君か。まったく、客の入りが違う。まるで芝居でも始まるようだよ。いや、仁子嬢の人気はたいしたものだ」
「彼女の演奏には、何か――人を惹きつける“力”があるようですね」
「ふむ、“力”ねえ……」
藤村は低く笑い、グラスの中の琥珀色を揺らした。
「商売人として言わせてもらえば、力でも魔法でも結構だ。楽器が売れれば、客が集まれば、それで充分。彼女の名を掲げれば、ヴァイオリンもピアノも飛ぶように売れる」
「ですが……噂もあります。彼女の演奏のたびに......死人が出る、と」
青年の声には、恐れとも興奮ともつかぬ色が混じっていた。
藤村は鼻で笑い、懐から葉巻を取り出す。
「馬鹿を言うな。そんなものは噂で飯を食う連中の戯言だ。――ま、恐怖もまた宣伝のうちだがね」
葉巻に火をつけ、紫煙を吐き出す。その瞬間、ロビーの奥で赤い衣装の影が一瞬よぎった。
藤村の目がぴくりと動く。
「……おや?」
彼の口元に、奇妙な笑みが浮かんだ。
「始まるぞ。あの“魔女”の舞台がな」
杉本は無言で頷いた。彼の目はすでに熱を帯び、別の感情――執着に近いものが宿っていた。
観客は詰めかけ、貴族も財閥も学者も庶民も、すべてが一点の舞台に視線を釘付けにしていた。彼らの目的はただひとり、魔曲の美女、小塚仁子である。
人々が次々と会場に集まり、ざわめきと期待の熱気が空気を満たしていた。歓声や笑い声が交錯し、誰もがこれから始まる時間に胸を躍らせている。やがて、会場の明かりがふっと消え、観客たちのざわめきは一瞬にして静まり返った。
その時――舞台袖の緞帳が、微かに波打った。
観客席に、期待とも畏怖ともつかぬ沈黙が落ちる。空気は重く、燭台の炎が一斉に身を縮めるかのようであった。
そこに現れたのは、ただ一人の女。小塚仁子。
彼女の装いは、常のごとく妖艶であった。鮮烈な真紅のドレスは、まるで舞台に燃えさかる炎のごとく。深く切れ込んだ肩口からは雪のように白い肌がのぞき、黒曜石のような瞳が光を吸い込んでいた。赤と黒――そのコントラストに酔う観客は、すでに音楽が始まる前から陶然となっていた。
その歩みは、舞台に立つ音楽家の優雅さではなかった。まるで古代の巫女が、血に濡れた祭壇に向かうかのように、運命に導かれし者の足取りであった。
「――あれが魔曲の美女だ」
どこかの席から、誰かの囁きが漏れた。だがその声もすぐに闇に吸い込まれ、誰も続けることはなかった。
仁子はゆるやかにヴァイオリンを掲げた。その仕草は、聖剣を抜き放つ騎士にも似て、また、断頭台の刃を示す死刑執行人にも似ていた。
赤衣の裾が微かに揺れる。会場全体が息を呑んだ。
その瞬間すでに、音はまだ響かぬのに、人々は彼女の支配下にあった。
かくして――魔曲の夜が、開幕したのである。
客席の通路脇に、制服姿の警察官を伴った中年男が陣取っていた。
黒木警部である。警察から公式に派遣されたわけではなかったが、後援者たちの中には要人も多く、「一応、顔を出しておいてくれ」と内々に依頼を受けたのである。
「まったく、音楽会の見張り役とはな……」
黒木は苦笑しつつも、仁子に向けられる熱狂的な眼差しに、言い知れぬ不安を覚えていた。
舞台の中央に、彼女はゆるやかに立ち上がる。
弓が弦に触れる。ひとすじの音が、会場全体の空気を支配する。
それはただの旋律ではない。魂を締め上げる鎖であり、胸腔を揺さぶる震動であり、聴衆を甘美と恐怖の狭間へと引きずり込む呪文であった。
――ある者は恍惚とし、
――ある者は戦慄し、
――ある者はただ目を見開き、赤き衣装の女を凝視した。
最前列には、このコンサートの後援者にして大楽器商の社長、藤村信三の姿があった。銀縁の眼鏡を光らせ、豪奢な外套を肩から落とし、満足げに頷いている。彼は仁子を広告塔として持ち上げつつも、その魔性に心を奪われたひとりでもあった。
だが、藤村の後方で控えていた若き記者・杉本修一は、異様な熱を帯びた眼差しで仁子を追っていた。その眼は、憧れとも狂気ともつかぬ光を宿していた。
さらに、客席の一角からは仁子のライバル、長谷川文子が嫉妬を込めて舞台を睨みつけていた。衣装デザイナーの玉置絵里は緊張した面持ちで自ら仕立てた赤いドレスを見守り、支配人の相馬は汗を拭いながら「頼むから何事も起こるな」と祈るように手を組んでいた。
――仁子の演奏は、まさに佳境に達しようとしていた。
ヴァイオリンの弓が宙を裂くたび、音は光のように鋭く、音階は生々しい生物のように舞台の上を蠢いた。高音は空を切り裂く刃、低音は地の底から呻く獣。仁子の指先は血を滴らせるような勢いで弦を弾き、赤衣の裾がふわりと翻るたび、舞台全体が紅の炎に包まれたかのようであった。
彼女の頬は紅潮し、瞳は異様な光を宿していた。
音楽はもはや旋律ではなかった。それは呪文であり、祈祷であり、あるいは古代の神々を呼び覚ます禁じられた詠唱だった。観客たちは次第に息をすることを忘れ、目を見開いたまま音に縛られていく。
ヴァイオリンの高音が天を突くと同時に、低音が地を震わせた。
その刹那、空間の温度が確かに上がった。誰もが感じた――まるで空気そのものが燃え上がるような異様な熱気を。
赤衣の仁子は舞台の中央で、もはや人間ではなく、音そのものの化身のように立っていた。
その時であった。
最前列の藤村が、胸を押さえてうめき声を上げた。
眼鏡がずれ落ち、口から泡を吹き、体が痙攣する。
「おい! どうした!」
黒木警部が思わず席を飛び出した時、藤村の巨体は椅子から転げ落ち、重く床に叩きつけられていた。
「ぎゃあっ!」
観客の叫びが一斉に爆ぜ、ホールは蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
悲鳴、ざわめき。誰かが「魔女の呪いだ!」と叫ぶ。
だが、舞台上の仁子は一瞬たりとも演奏を止めなかった。真紅の衣装に身をくねらせ、なおも魔曲を奏で続ける。血のように鮮やかな旋律が、死を告げる鐘のように鳴り響いた。
その妖艶さに観客はますます怯え、「魔女の音楽だ!」と囁く声が広がる。その妖艶な姿は、もはや人ならぬ存在のようであった。
「下がれ下がれ! 警察だ!」
黒木警部が人々を押し分け、死体の傍らに膝をつく。汗ばんだ額を拭いながら、脈を確かめる。
「……駄目だ、既に息はない」
ここで、ひとりの痩せぎすな長身が、舞台袖から転がるように現れた。
「これは! 音楽の呪いだ! 赤衣の魔女が、楽曲の振動で社長の心臓を粉砕したのだ!」
誰何するまでもない。彼こそは自称探偵・明智小誤郎。舞台に駆け寄り、大仰に指を振り上げ、観客席を睥睨する。
「諸君! 音楽には人を陶酔させ、狂気に導く力がある。だが今夜はそれを超え、人体を破壊したのだ!」
舞台を大仰に指差す小誤郎に、黒木警部は目を丸くした。
「……お前、なぜここに居る!」
「探偵だからだ!」
得意げに答える小誤郎の言葉に、警部は天を仰いだ。
観客の誰もが呆れ顔で見守る中、小誤郎は死体にかがみ込み、無駄に学者ぶった調子で首筋を押さえたり、呼吸を確かめたりする。
――そして、彼は不意に大きなくしゃみをひとつ。
「はっくしょん!」
その鼻腔に、微かに漂う揮発性の甘苦い匂い。
「む……むむ?」
小誤郎は得意げに顔を上げ、会場を見渡し、声高に叫んだ。
「やはり私の推理通り! これは毒殺である!」
黒木警部は額を押さえ、観客はどよめき、
その混乱のさなか――
舞台上で、仁子はヴァイオリンを弾き続けていた。
照明の下、弓が一定の速さで動き、音が会場全体に均等に広がっていく。
彼女のそばには、一人の男が倒れている。
すでに動かず、救助の手も差し伸べられていない。
それでも演奏は止まらなかった。
仁子の表情には変化がない。
譜面を見つめるわけでもなく、観客を意識する様子もない。
ただ、弓の軌道と指の位置を確認するように、機械的な正確さで音を紡いでいた。
観客席は静まり返っていった。
誰もが死を認識していたが、誰も立ち上がらない。
ざわめきも、悲鳴もない。
音楽だけが場を支配しており、その秩序を乱すことを恐れているようだった。
やがて、楽章の区切りが訪れた。
空気は重く、誰も拍手をしなかった。
それでも仁子は次の音を探すように、弓をわずかに持ち上げた。
死と音の境界は、もはや誰にも判別できなくなっていた。
仁子は、最後の音を澄んだ調べで弾き切ると、静かに弓を下ろした。まるで目の前の死も、騒動も存在しないかのように。深々と優雅に一礼し、赤衣の裾を翻すと、楽屋口へと姿を消していった。
観客は恐怖と呆然のうちにその背を見送るしかなかった。
――赤き旋律と共に死を招く女。その伝説の幕は、こうして開かれたのであった。
仁子が退場した後、会場は地獄のような騒然に包まれた。
観客の悲鳴が交錯し、支配人の相馬は顔面蒼白のまま舞台に駆け寄る。係員が叫び、照明が乱れ、幕が慌ただしく下ろされた。間もなく救急隊が到着し、藤村の遺体は検死のため担架に乗せられ、静かに運び出された。黒木警部以下、警察が現場検証と関係者の聴取を開始し、ホールの出入りは厳重に封鎖された。
観客の誰もが動揺し、互いに口々に「まさか演奏中に……」と震える声で囁いた。
だが――あの赤き女、小塚仁子の姿は、二度とその場に現れることはなかった。
予告:第二話「血を呼ぶフルート」
赤い衣装の仁子がフルートを奏でる――。
しかしその音色とともに、観客の作曲家・矢田が倒れる。
自称探偵・小誤郎の奇怪な推理、ステージに隠された小型の刃、
そして次の犠牲者の影が迫る――。
血を呼ぶフルート、開幕。
にほんブログ村
.png)
.png)
コメント
コメントを投稿