『田所トメ子の事件簿:完走できなかった英雄』第1話

 


田所トメ子の事件簿:完走できなかった英雄

  真夏のレースが照らした、努力と嫉妬と贖罪のドラマ


 登場人物

田所トメ子
主婦探偵。観察力と推理力で小さな違和感を見逃さない。事件現場では帽子を深くかぶり、真剣な眼差しで調査を進める。

田所ケイジ
夫。ドローンやスマホで現場を撮影し、証拠収集をサポートする。意外に機械音痴でドジを踏むことも。

田所ユキ
娘。大会の公式アナウンスを手伝うボランティア。表向きは元気だが、裏でメモ魔。選手やスタッフの細かな動きを記録している。

石井タカシ
町の誇るエース選手。今回の大会で優勝候補だったが、水泳区間で命を落とす。爽やかな人気者だが、一部の人間には反感も買っていた。

山田ヒロト(ライバル選手)
石井に勝てないことに苛立ち、自転車区間で妨害を仕掛ける。

小川ミナ(芸術肌の市民ランナー)
「競技は美しくあるべき」という独自哲学から、ランニングコースに不自然な細工をする。

佐藤マサル(大会スタッフ)
コース設営やルール説明を担当。表向きは冷静だが、石井と過去に確執がある。

高橋アヤカ(スポンサー担当)
成績が企業広告に直結するため、石井の存在が邪魔に。大会後援企業の利益を最優先に考えている。

吉田タクマ(救護スタッフ)
医療知識を悪用し、石井の死亡を「事故死」に偽装する。

   刑事

   おばちゃん応援団
   石井タカシのおっかけ。彼の雄姿を一目見ようと沿道で選手を応援する町の名物お      ばちゃんたち          

 

1話 水面に浮かぶ影

夏の朝、海辺の町はいつもより早く目を覚ました。
潮の香りと、かすかに潮騒を混ぜた塩気の風が浜辺を撫でる。

毎年恒例の町主催トライアスロン大会の日。
砂浜には色とりどりのテントが立ち並び、観客席は開場前から埋まり始めていた。
家族連れが手に持つ旗やうちわを揺らし、カメラやスマートフォンを手にした人々の期待の眼差しが海に向けられる。

この大会はスイム1500m、バイク90Km、ラン10Km、いわゆるオリンピックディスタンスと呼ばれる距離である。

「今年は誰が優勝するのかしら」
「去年のあの子、すごかったよね!」
観客の声が波の音に混ざる。

砂浜には大会スタッフやボランティアたちが忙しく動き回り、選手のゼッケンをチェックしたり、スタートブイを最終確認したりしている。
レスキュー用ボートを整えるボランティアの少年たち、実況席でマイクを握るアナウンサーの声も混ざり、海辺は熱気で満ちていた。


海面には無数の人影。
その中でひときわ目立つのが、町が誇るエース選手、石井タカシだ。
鍛え上げられた体、引き締まった肩と腕、そして整った顔立ち。
観客の視線が自然と彼に集まる。

砂浜の上に立つ石井タカシは、まるで海の王者のように堂々としていた。
日の光を浴びた肌は輝き、鍛え上げられた肩や腕、脚のラインが自然に際立つ。
ゼッケンを胸に巻き、身体を動かす仕草ひとつひとつに、観客の目が釘付けになる。

その中で、ひときわ目立つのが黄色いシャツ揃えたおばちゃん応援団だ。おそろいのきいろいTシャツには「GoGo! Takashi!」の文字がプリントされている
「タカシー!頑張れー!」
「ほらほら、その腕!見せて見せてー!」
「泳ぎは任せたわよ、海の王子!」

 

トメ子は観客席の端に立ち、帽子を押さえながら水面をじっと見つめている。「今年も何かありそうね……」と小さくつぶやき、視線を海面に向ける。

夫の田所ケイジは、スマホとドローンのリモコンを手に、スタートラインの上空からの映像をチェック。
「海の波も穏やかだし、撮影条件は完璧だな」と呟く。
横で見ているユキはメモ帳を開き、選手たちの表情や動きを記録している。
「お母さん、今年も実況補助バッチリやるよ!」

浜辺の反対側では、運営スタッフの佐藤マサルがブイの位置を最終確認し、細かく調整している。
スポンサー担当の高橋アヤカはカメラマンと話しながら、選手の位置やフォトスポットをチェックしている。
ボランティアの吉田タクマも救護所の器具を確認し、準備が整っているか目を光らせる。

観客席からは応援団の声が高まり、子供たちは旗を振る。
砂浜に響く歓声と波の音が混ざり、海辺は一気に活気づいた。

石井タカシは深呼吸をひとつ。背筋を伸ばし、視線を遠くのブイに定める。
軽く腕を回すだけで全身の筋肉が滑らかに動く。
トメ子ですら思わず目を奪われ、心の中で呟く。
……やっぱり、この人が町の誇りね」

海の波音に混じり、観客の歓声やカメラのシャッター音が響く。
砂浜に立つ石井は、ただそこにいるだけで画になる――まさに、この町のスターそのものだった。

スタートブイの周りでは、他の選手も最後の調整をしている。
ある選手は浮き輪の位置を何度も確認し、別の選手は手を叩きながら深呼吸を繰り返す。
小川ミナの姿も見えるが、まだ何も動かしている様子はない――ただ、目は海面の一部に集中している。

「まもなくスタートです!選手たちは準備を整えてください!」
アナウンサーの声が砂浜に響き渡る。

石井は軽く手を振り、周囲に笑顔を向ける。
「今日も完璧に泳ぐ……!」
その表情には、余裕と自信が同居していた。

トメ子はメモ帳を取り出し、波の動き、選手の動き、微妙な違和感をそっと書き留める。
「今年も、始まるのね……
その視線の先には、まだ誰も気づいていない小さな影が水面に潜んでいた。

海面に朝日が反射し、砂浜の金色の光が波に揺れる。
選手たちはスタートラインに並び、海に向かって体をそろえる。
水面の青と、空の橙が交錯する光景の中、緊張が空気を支配する。

石井タカシは肩の力を抜き、背筋をまっすぐに伸ばす。
腕を軽く振り、深呼吸をひとつ――海の塩気を肺いっぱいに吸い込む。
その姿は落ち着きと自信に満ち、他の選手たちの焦りとは対照的だった。

周囲の選手たちも息を整え、浮き輪や手を確認し、必死に心を落ち着ける。
海の波は穏やかだが、わずかなうねりが足元の砂を揺らし、選手たちの体を微かに揺らす。
観客席からは、ざわめきと期待の声が入り混じり、緊張をさらに高める。

トメ子はメモ帳を片手に、帽子を押さえて海面を観察していた。
「小さな違和感……今年もありそうね」と、彼女は息を潜めるように呟く。
横でケイジはドローンの操作を微調整し、ユキは目を光らせて石井の動きを追う。

そしてアナウンサーの声が緊張感を切り裂く。
「間もなくスタートです!選手の皆さん、構えてください!」

石井は海を見据えたまま、視線をわずかに揺らす。
全身の筋肉が呼吸と連動し、静かに緊張をため込む。
その姿はまるで、静かに嵐を待つ航海者のようでもあり、目の前の海を征する決意に満ちていた。

号砲が鳴る。
砂浜に立つ選手たちは一斉に海に飛び込み、白い水しぶきと歓声が空気を震わせる。
石井は一瞬の迷いもなく、腕を大きく振り、滑るように水面に身を預けた。
その動きはまるで水を切る矢のようで、周囲の混乱を一瞬で置き去りにする。

海の波の下で、まだ誰も気づかない小さな違和感が潜んでいた――

 

周囲の選手たちも一斉に飛び込む。水面は一瞬で白い波と水しぶきに包まれた。
トメ子は砂浜の端で帽子を押さえ、細い目で水面を観察している。
「ふむ……何かがおかしいわね」と、彼女は独り言をつぶやく。

石井タカシは冷たい海水に体を預け、呼吸と水の抵抗を完璧に調整しながら前へ進む。
手足が波を切るたびに、腕の筋肉が滑らかに動き、体がまるで水中に吸い込まれるかのようにスムーズに進む。
水の流れを読み、波のうねりに逆らうことなく、まるで矢のように一直線にブイへ向かっている。
周囲の選手が波に揉まれたり、バランスを崩したりするのとは対照的に、彼の泳ぎは圧倒的な安定感を誇っていた。

おばちゃん応援団は、波間に身を預ける選手たちを見ながら黄色い声を張り上げる。
「タカシー!そのまま行けー!」
「抜けー、抜けー!あんたがスターよ!」

しかし、石井の視界の端で、数人の選手が不自然にもたついているのが見えた。
腕を回すたびに浮き具やボードにわずかに引っかかる。
顔を水中に埋めて必死に呼吸をつなぎ、力を振り絞って前に進もうとする姿は、まるで水に飲み込まれそうな小さな魚のようだった。
波間に身体を翻し、足を蹴り出しても、水面の浮き具に阻まれて思うように進めない。

一人の選手は、息が荒くなり、両手で浮き輪にしがみついたまま身動きが取れなくなった。
海面は冷たく、手足は徐々に疲労で重くなる。
救助ボートが近づき、ボランティアが手を差し伸べる。
その選手はため息混じりに諦めの表情を浮かべ、ボートに引き上げられ、無念の棄権となった。

また別の選手は、浮き具に引っかかった瞬間にパニックになり、波をかき分ける力を失う。
必死で水面を叩くが、体は波に押し戻され、何度も同じ場所で立ち止まってしまう。
その前方で石井は、変わらぬ優雅さで水面を滑り、彼らの混乱を横目に、まるで異次元のスピードで前進していた。

トメ子は砂浜の端からその光景を観察し、軽くメモを取る。
「波や潮流だけじゃない……何かがおかしいわね」
しかし今はまだ、その正体は誰にも見えていなかった。

トメ子は小さくメモを取る。
「この波と潮流でこんなに苦戦するなんて……ふむ、偶然じゃないかもしれないわね」

海上では石井が余裕の表情でブイを次々と回り、まるで周囲の混乱など関係ないかのように泳ぎ続けた。
水面に映る朝日が彼の笑顔を輝かせる――それを見た観客からは、大きな歓声が上がった。

数十分後、石井は海から上がり、砂浜に足をつける。呼吸も乱れず、まるで水泳区間は何事もなかったかのようだ。
対照的に、他の選手たちは疲労と焦りの表情を浮かべ、体を拭きながら呆然と立ち尽くす。

トメ子は帽子を押さえ、海をじっと見つめた。
「水は何も語らない……でも、人は語りすぎるのね」

それは、まだ誰も知らない、小さな違和感の始まりだった。

 

次回予告 2話「軋むブレーキ」

ナレーション(静かに):
「水泳を終えた石井タカシを待っていたのは、灼熱のロード。
 だが――その自転車から、わずかなきしみが聞こえた。」

石井がペダルを踏み込み、タイヤが砂を巻き上げる。
トメ子が帽子を押さえ、目を細める。
ヒロトの視線が一瞬だけ揺らぐ。

「止まらないペダル。
 そして、静かに狂い始めた運命。」

田所トメ子の事件簿《完走できなかった英雄》
2話『軋むブレーキ』



にほんブログ村 小説ブログ ミステリー・推理小説へ
にほんブログ村

コメント