『田所トメ子の事件簿:完走できなかった英雄』第2話
第2話 軋むブレーキ
強い日差しが砂浜を白く照らしていた。
海面が割れる。
夕陽のような光を反射して、水しぶきの中からひとりの男が姿を現した。
石井タカシ――。
肩から滴る海水が、筋肉の起伏を鮮やかに描き出す。
引き締まった体に張りつくウェットスーツの光沢。
太陽の下で濡れた髪をかき上げる仕草すら、まるで雑誌の表紙のようだった。
「石井だ!」「トップだぞ!」
観客席が一気に沸き立つ。
子どもたちがフェンスに駆け寄り、手を振る。
彼は息を整えながらも、笑顔を崩さず、軽く手を上げて応える。
その余裕と優雅さが、さらに歓声を大きくした。
足元の砂を蹴り、石井はトランジションエリアへと駆け出す。
濡れた体に太陽が照りつけ、飛び散る水滴が光の粒となって宙に舞う。
スタッフがタオルを差し出すが、彼は首を横に振り、そのままウェットスーツを素早く脱ぎ捨てた。
動作に一切の無駄がない。
まるで、競技そのものと一体になっているかのようだった。
砂浜沿いの観客席では、黄色いシャツのおばちゃん応援団が腕を振り、声を張り上げる。
「タカシー!そのまま行けー!」
「ペダル、もっともっと!あんたがスターよ!」
「負けるなー!うちの誇りー!」
トメ子は観客の列の後方から、その姿をじっと見つめていた。
「……やっぱり、只者じゃないね」
帽子のつばを指で押さえながら、ぽつりと呟く。
その声には、 admiration(感嘆)と、どこか引っかかるような予感が混ざっていた。
石井は自分の自転車へと向かう。
真っ白なヘルメットを手に取り、ベルトを締める。
サングラスをかけた瞬間、彼の表情から“人間”の柔らかさが消え、
代わりに“競技者”としての鋭い光が宿る。
タイヤを軽く押し、ブレーキを確かめる。
小さく「カチリ」と音がしたが、彼は気に留めない。
深呼吸を一つ。
その横顔には、恐れも迷いもなく、ただ静かな自信だけがあった。
彼が自転車を引いて走り出すと、沿道から再び歓声が上がる。
「かっけぇ……」「あれが本物のアスリートだ」
そんな声が次々に飛び交い、スマホのカメラが一斉に彼を追う。
光と影のコントラストの中、
石井タカシはまさに“完璧なヒーロー”として、次のステージへと踏み出した。
おばちゃん応援団は声を落とさず、熱心に黄色い声を続ける。
「その調子!タカシ、カッコいいー!」
「ほらー!後ろの子たち、ついて来れるかしらー!」
しかし、熱心に応援しながらも、一人のおばちゃんが眉をひそめる。
「ちょっと待って、今のペダル…何か変じゃない?」
「え?ホントだ、変な音が聞こえたわよ!」
「まあでも頑張れー、タカシー!」
沿道では、田所トメ子が双眼鏡を構え、選手たちの動きを観察していた。
その隣で、ケイジがドローンの映像をタブレットに映しながら呟く。
「スピード、出てるな。やっぱりトップクラスだ」
ユキは観客の間を走り回り、選手名と順位を記録している。
コースに出た石井は、風を切るようにペダルを踏み込む。
アスファルトの照り返しが眩しく、景色が流れていく。
水泳の疲れをものともせず、体は軽く、呼吸も安定していた。
海から陸へ――彼の動きには一分の隙もない。
だが、坂道に差しかかったとき、再び“音”がした。
――ギィ……ギギィ。
ほんのわずかだが、金属が擦れるような、不快なきしみ。
石井は眉をひそめ、軽くブレーキを握る。
「……ん?」
感触が、いつもと違う。
わずかに遊びが大きい。
だが、動作自体に支障はない。
「大丈夫だ、問題ない」
彼はそう自分に言い聞かせ、再び前へと視線を向けた。
――その背中を、別の目が追っていた。
「ケイジ、映ってる?」
日除け帽を被ったトメ子が声をかける。
「もちろん。上空30メートル。いい角度だ」
夫のケイジはタブレットを操作しながら、ドローン映像をズームさせる。
画面には、青い海を背景に疾走する石井の姿が映っていた。
「……やっぱり、絵になるねぇ」
トメ子が感嘆の息を漏らす。
映像の中の石井は、陽光を背にしてペダルを踏みしめ、
風を切ってコーナーを抜ける。
だが、その動きの一瞬――
トメ子の目が細くなった。
「ねえケイジ、ちょっと巻き戻して」
「どこ?」
「このカーブの前。今の、変な角度で足がブレた」
ケイジが映像をスロー再生にする。
石井の右足がペダルを踏み込んだ瞬間、
ほんのわずか、バランスを崩すように車体が左右に揺れた。
「……見た?」
「見た。たぶん路面の段差か風だろ」
「でも、彼のフォームなら普通は乱れない。
それに、前輪がちょっと……音がしてた気がする」
ケイジは苦笑いを浮かべる。
「トメちゃん、ドローンに“音声”は入ってないよ」
「そうだったっけ?」
「そうだった」
トメ子は肩をすくめ、再び画面を覗き込む。
その視線は、いつものようにただの観客のものではなかった。
――何かが、引っかかる。
けれど、何がとはまだ言えない。
石井タカシはそのまま速度を上げ、
次の坂道を力強く登っていく。
観客の歓声が風に流れ、ドローンの映像には
一点の曇りもない青空が広がっていた。
だが、田所トメ子だけは気づいていた。
その“完璧な姿”の奥に、
ほんのわずかな歪みが潜んでいることに――。
石井タカシの後方では、山田ヒロトが必死に追っていた。
歯を食いしばり、ペダルを踏みしめる。
「……負けてたまるかよ」
汗が顔を伝い、目にしみる。
石井の背中は遠ざかっていく。
彼の胸に、わずかな焦りと悔しさが混じった。
観客の歓声が響く中、石井はカーブへ差しかかる。
太陽の光がハンドルに反射し、一瞬、視界が白く霞む。
――その瞬間。
ギィ……ギギィ……と、またあの音がした。
今度は明確に、軋んでいる。
「風のせいじゃない……これは――」
石井は再びペダルを強く踏み込み、坂を駆け上がっていった。
背中に流れる汗が光を受け、燃えるように輝いていた。
海風が吹き抜ける。
彼の姿は、遠ざかる太陽の光の中でまぶしく、そして――どこか儚かった。
坂を下りきり、石井タカシはハンドルを低く構えた。
向かい風を切り裂くように、流線形の体勢。
それは“人が風と一体になる瞬間”そのものだった。
――だが、その瞬間。
「ギィ……」
かすかな軋み音が、足元の方から響いた。
最初は気のせいだと思った。
だが、次のカーブを曲がるたびに、
音は少しずつ、確かに大きくなっていった。
「……ブレーキか?」
石井はわずかに眉をひそめる。
レバーを握ると、抵抗がほんの一瞬だけ強く感じられた。
ワイヤーが張りすぎているのか、あるいは砂でも噛んだのか。
どちらにせよ、レース中に調整する時間などない。
「大丈夫、大丈夫……」
小さく呟き、彼は再びペダルを踏み込んだ。
しかし、そのわずかな違和感は、確実にスピードを奪っていた。
下りでの伸びが鈍く、平地では脚の回転数が上がらない。
その間に、背後から風を裂く音が近づいてくる。
「通るよ!」
ライバルの山田ヒロトが、すれ違いざまに声をかけた。
石井は短く頷く。
次の瞬間、ヒロトのバイクが軽やかに抜けていった。
それに続くように、二人、三人と選手たちが彼を追い抜いていく。
観客の歓声が、どこか遠くに聞こえる。
石井は唇を噛んだ。
ここで焦ってはいけない――それは彼自身が誰よりも知っている。
だが、ハンドルを握る手に伝わるわずかな震えが、心をざわつかせた。
「頼む……持ってくれ」
そう呟いて、彼は再びペダルを強く踏み込む。
金属の擦れるような音が短く鳴ったが、無理やり押さえつけるように速度を上げた。
ケイジのドローン映像が、その様子を上空から追っていた。
画面の中で、石井のフォームは完璧なままだが、
タイム計測モニターにはじわじわと順位が下がっていく数字が映る。
「……五位まで落ちたな」
ケイジが呟く。
トメ子は黙ったまま、画面の端に映る彼の右手の微妙な動きを見つめていた。
「手首が硬い。……痛めてるのか、あるいは――」
言いかけたところで、石井が最後の坂を登りきった。
ゴール手前、彼はスピードを緩め、
慎重に自転車を止める。
ブレーキレバーを握ると、
「ギギ……」という短い悲鳴のような音が、確かに鳴った。
石井は顔をしかめたが、すぐに笑みを作った。
「悪くない……まだ追いつける」
自分に言い聞かせるように呟き、
バイクをラックに掛ける。
汗と海水と油が混じった匂いが、夏の空気の中に溶けた。
彼は再びサングラスを直し、ランニングシューズに履き替える。
脚に力を込め、次のステージへと踏み出す。
――それが、彼にとって“最後の走り”になるとは、
この時、誰も知る由もなかった。
次回予告 — 第3話「焦げたアスファルト」
ナレーション(静かに、不吉な余韻を残して):
「順位を落とした石井タカシ。
だが、彼の瞳にはまだ“勝利の光”が消えていなかった。
灼けた路面を踏みしめ、彼は再び走り出す。」
映像:
アスファルトの上に滴る汗。
観客の歓声が遠くにかすむ。
トメ子が帽子を押さえ、何かに気づく表情。
ナレーション:
「そして――次の区間で、決定的な“歪み”が姿を現す。」
テロップ:
田所トメ子の事件簿《完走できなかった英雄》
第3話『焦げたアスファルト』
登場人物
田所トメ子
主婦探偵。観察力と推理力で小さな違和感を見逃さない。事件現場では帽子を深くかぶり、真剣な眼差しで調査を進める。
田所ケイジ
夫。ドローンやスマホで現場を撮影し、証拠収集をサポートする。意外に機械音痴でドジを踏むことも。
田所ユキ
娘。大会の公式アナウンスを手伝うボランティア。表向きは元気だが、裏でメモ魔。選手やスタッフの細かな動きを記録している。
石井タカシ
町の誇るエース選手。今回の大会で優勝候補だったが、水泳区間で命を落とす。爽やかな人気者だが、一部の人間には反感も買っていた。
山田ヒロト(ライバル選手)
石井に勝てないことに苛立ち、自転車区間で妨害を仕掛ける。
小川ミナ(芸術肌の市民ランナー)
「競技は美しくあるべき」という独自哲学から、ランニングコースに不自然な細工をする。
佐藤マサル(大会スタッフ)
コース設営やルール説明を担当。表向きは冷静だが、石井と過去に確執がある。
高橋アヤカ(スポンサー担当)
成績が企業広告に直結するため、石井の存在が邪魔に。大会後援企業の利益を最優先に考えている。
吉田タクマ(救護スタッフ)
医療知識を悪用し、石井の死亡を「事故死」に偽装する。
刑事
おばちゃん応援団
石井タカシのおっかけ。彼の雄姿を一目見ようと沿道で選手を応援する町の名物おば ちゃんたち
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