『田所トメ子の事件簿:完走できなかった英雄』第4話
第4話 五人の影
海風が冷たくなり始めた午後。
つい数時間前まで歓声に包まれていたトライアスロン会場は、今や重い沈黙に包まれていた。
砂浜には立入禁止の黄色いテープが張られ、遠くで救急車のサイレンが細く伸びている。
真夏の太陽が沈みきる前、海は不気味なほど穏やかだった。
救護所の外に集まった人々の視線の先、ブルーシートが風に揺れた。
「……石井タカシ、死亡確認。」
係員の低い声が響くと、あたりの空気が一瞬、止まったように感じた。
山田ヒロトは、その言葉を耳にした瞬間、顔から血の気が引いた。
「……嘘だろ。あいつ、あんな丈夫だったのに……」
声は掠れ、唇は震えていた。
手に持っていたサングラスが砂に落ち、彼はそのまま地面に膝をつく。
周囲の選手やスタッフがざわめく中、ヒロトの耳には何も入ってこなかった。
「俺……整備、したけど……まさか……」
誰に言うでもなく、つぶやくように漏れる。
その言葉を、近くにいたカメラマンが拾い、次の瞬間にはレンズが一斉に彼に向けられた。
夕方、警察が現場に入り、関係者を次々と呼び出していった。
波打ち際のテントには、書類の束と記録機材。
田所トメ子は、帽子のつばを下げ、遠くからその様子を見ていた。
夫のケイジが操縦するドローンは、現場の映像を空から捉えている。
「トメさん……やっぱり、山田くんが怪しいって言ってるよ。
ブレーキ、彼が触ってたんだろ?」
「ええ、でも“触ってた”と“壊した”は違うわ」
トメ子は手帳にメモを取りながら、静かに呟く。
「焦りの中に、真実が隠れるのよ」
関係者の供述
山田ヒロトは最初に呼ばれた。
警察官の前に座った彼は、両手を膝に置き、うつむいたまま小刻みに震えていた。
「工具を使ったのは確かです。でも、整備を手伝っただけです」
「ブレーキ部分に改変の跡がありました。あなたの指紋も」
「……俺じゃない! 本当に、そんなことするわけない!」
声が上ずるたび、彼の瞳には涙がにじんだ。
それは罪の自白にも、ただの混乱にも見える——その境目が曖昧だった。
次に呼ばれた小川ミナは、椅子に座るとすぐにスマホを取り出した。
「映像を見れば分かります。浮き具の配置、ほんの数十センチ直しただけ。
美的に歪んでたんです。あのフォントと並んでるの、我慢できなくて」
「安全基準に反していた可能性がありますが?」
「そんなつもりじゃ……だって、美しい大会にしたかったんですもの」
彼女の声は誇らしげでありながら、どこか怯えていた。
佐藤マサルは、運営本部の青いスタッフジャンパーを着たまま。
「見やすくしただけですよ、コースを。誰も混乱しないように」
「しかし、地形データに誤差が出ています」
「偶然です。ほんの少しだけ線を短くしただけなんです」
言いながら、彼は胸ポケットのペンをいじる。
爪でプラスチックを削る音が、緊張を物語っていた。
高橋アヤカは、背筋を伸ばし、淡々と答える。
「動線を変えたのは、スポンサーのロゴが映る角度を意識しただけです」
「救護所の位置がずれたのは?」
「ええ、映像的に……そちらの方がきれいだったから」
声は冷静だったが、言葉の端が震えていた。
手首に巻かれたブランドウォッチの秒針が、異様に大きな音を立てていた。
吉田タクマは、淡々としていた。
「救護所の対応は適切でした。機材に問題はありません」
「酸素ボンベの圧が低かったとの報告がありますが?」
「……知らないですね。設定は触ってません」
短い返答のあと、彼は下唇を噛みしめた。
ほんの一瞬だが、目が泳いだ。その一瞬を、トメ子は逃さなかった。
さらに、ボランティアやコース設置スタッフも事情聴取を受けていた。
「スタートライン近くで何か異常はありましたか?」
「ええと…見たのは小さな浮き具の位置がちょっと変わっていたくらいです」
「他の選手が溺れる場面は?」
「近くには救助がいて…直接は見ていません」
声は小さく、動揺が混じっていた。
小さな違和感をそれぞれが抱えているが、全体像を把握している者はいない。
日が暮れ、報道陣が詰めかける。
警察本部から速報が届く。
「自転車のブレーキ部分に改変の痕跡あり。
山田ヒロト選手の指紋が検出され、事情聴取を継続中。」
仮設テントの中。
山田ヒロトは金属製の椅子に座り、テーブルの上で手を握りしめていた。
冷めた紙コップのコーヒーから、苦い匂いだけが立ちのぼる。
外では、報道の声と群衆のざわめきが混じり合っていた。
「——ブレーキに細工してたんだって!」
「指紋が出たらしいよ!」
「まさか、あのヒロトが……」
テントの薄い布越しに、その言葉がこだまして聞こえる。
彼は耳を塞ぎたかったが、手が動かなかった。
「……俺じゃない。本当に、そんなつもりじゃなかったんだ」
唇から漏れる声は、誰にも届かない。
記者のカメラのフラッシュが、外の白布を透かして点滅するたび、
彼の表情が蒼白に照らし出された。
その光を、遠くからトメ子がじっと見つめていた。
「山田ヒロト……あなたが犯人なら、こんな顔はしない。
けれど——“犯人の顔”として、世界があなたを選ぼうとしている」
潮風が強く吹き、テントの幕がバサリと揺れた。
トメ子は静かに手帳を閉じ、背を向ける。
波打ち際に残る夕陽の光が、まるでまだ沈みきらない真実を照らしているかのようだった。
事情聴取が一段落し、仮設テントの外では警察官が資料整理に追われていた。
群衆や報道陣はまだざわめき、海風に混じって「やっぱりヒロトか」「指紋が出たらしい」といった声が漏れ聞こえる。
トメ子は帽子のつばを押さえながら、警察官のひとりに近づいた。
「山田ヒロトの件ですが、少しお話できますか?」
「……あの、あなたは誰ですか?」
警察官の問いに、トメ子は一瞬言葉を詰まらせた。
「私は、田所トメ子……この町に住む者です」しかし警察官は不審そうに眉をひそめる。
「町の人間ですか? この事件と何か関係があるのですか?」
その時、トメ子の夫ケイジが横から手を挙げ、軽く口添えした。
「この人ですか? 毎年大会に来て、選手やボランティアの動きを記録してるんです。正確な観察眼があります」
さらに、周囲でトメ子を知る町の人たちが小さく頷き、信頼の目を向ける。
警察官は一瞬考え込み、やや柔らかい口調になった。
「なるほど……あなたはこの大会や関係者の動きを把握していると」
「ええ、全体の流れや細かい違和感なども観察しています」
トメ子は手帳を取り出し、静かにメモをめくる。
「山田ヒロトの件ですが、少しお話できますか?」
警察官は腕を組み、眉間に皺を寄せる。
「もちろん。彼はブレーキに手を加えた可能性が高いです。指紋も一致の可能性があります。正直、これ以上怪しい人物はいません」
「ええ、もちろん状況証拠としてはそうでしょう。でも、全体の流れを考慮すると、他の人たちの動きや配置も事故に影響した可能性があります。山田さんだけが原因とは限らない」
トメ子の声は柔らかく、押し付けがましさはない。しかし、その眼差しは鋭く、警察官の心に小さな疑問を残した。
警察官は少し黙った後、うなずいた。
「わかりました。あなたの観察も、調査に加えてみましょう」
遠くで夕陽が海面を赤く染め、夜の帳がゆっくりと下りていく。
波の音に混じり、まだ沈んでいる真実の影が、確かに揺れていた。
山田ヒロトの膝がかすかに震え、彼の背中に疑惑の影が落ちている。
しかしトメ子の目には、まだ誰も見抜けていない連鎖の全貌が、静かに浮かんでいた。
次回、第5話
「トライアスロンは正義よ」
田所トメ子が、五人の“正しい行動”が導いた悲劇の真相を暴く。
登場人物
田所トメ子
主婦探偵。観察力と推理力で小さな違和感を見逃さない。事件現場では帽子を深くかぶり、真剣な眼差しで調査を進める。
田所ケイジ
夫。ドローンやスマホで現場を撮影し、証拠収集をサポートする。意外に機械音痴でドジを踏むことも。
田所ユキ
娘。大会の公式アナウンスを手伝うボランティア。表向きは元気だが、裏でメモ魔。選手やスタッフの細かな動きを記録している。
石井タカシ
町の誇るエース選手。今回の大会で優勝候補だったが、水泳区間で命を落とす。爽やかな人気者だが、一部の人間には反感も買っていた。
山田ヒロト(ライバル選手)
石井に勝てないことに苛立ち、自転車区間で妨害を仕掛ける。
小川ミナ(芸術肌の市民ランナー)
「競技は美しくあるべき」という独自哲学から、ランニングコースに不自然な細工をする。
佐藤マサル(大会スタッフ)
コース設営やルール説明を担当。表向きは冷静だが、石井と過去に確執がある。
高橋アヤカ(スポンサー担当)
成績が企業広告に直結するため、石井の存在が邪魔に。大会後援企業の利益を最優先に考えている。
吉田タクマ(救護スタッフ)
医療知識を悪用し、石井の死亡を「事故死」に偽装する。
刑事
おばちゃん応援団
石井タカシのおっかけ。彼の雄姿を一目見ようと沿道で選手を応援する町の名物おば ちゃんたち
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