『田所トメ子の事件簿:完走できなかった英雄』第5話 ~最終話

 


5話 トライアスロンは……正義よ

夕陽が海面を朱に染め、静かな波音が砂浜を洗う。
閉会式のテントには、張り詰めた空気が漂い、誰も声を発していなかった。

その時、石井タカシの両親——母・雅子、父・洋一——が到着した。
雅子は肩を震わせ、涙で濡れたハンカチを握りしめ、地面を踏みしめながら進む。
「どうしてどうしてこんなことに
声はかすれ、涙が頬を伝った。

洋一も膝に額を押し当て、手で顔を覆ったまま小さく震えている。
「タカシ……全力で挑戦したのに……
全身から力が抜け、足元がふらつく。

両親の深い悲しみに会場の空気が重くなる。
泣き崩れる雅子の肩をそっと抱き寄せ、洋一の背中に手を置いたトメ子は、落ち着いた声で語りかける。

「雅子さん、洋一さん、どうか少し落ち着いてください。
今、皆さんに起こったことの全貌を、私の推理として整理してお伝えしたいのです」

トメ子はハンカチで涙を拭う母の手にそっと手を添え、優しく肩に触れる。
「泣いていいんです。悲しい気持ちは当然です。
でも、今は落ち着いて事実を受け止めることで、少しずつ理解することができます」

雅子はわずかに息を整え、ハンカチで涙をぬぐう。
洋一も深く息を吸い込み、トメ子の視線を受け止める。
その静かな励ましに、両親の心の震えが少しずつ和らいでいく。

トメ子は帽子のつばを押さえ、二人を見つめながら続けた。
「今から、私が推理として導き出した事故の全体像をお話しします。
どうか最後まで、耳を傾けてください」

波音が静かに響く中、両親は少しずつ背筋を伸ばし、悲しみと共に覚悟を決めるかのようにトメ子を見つめた。

大会関係者やボランティア、スポンサー担当者、警察官たちが周囲を取り囲む。
山田ヒロト、小川ミナ、佐藤マサル、高橋アヤカ、吉田タクマ——五人は緊張の面持ちで座り、互いの顔を見ずに俯いていた。


トメ子の推理

トメ子は帽子のつばを押さえ、落ち着いた声で話し始めた。
「雅子さん、洋一さん、皆さん。私は今回の事故について、全体を整理して推理しました。
石井タカシ選手は、水泳、自転車、ランニングという順に競技をこなしています。

水泳区間では、何か普段とは違う小さな違和感がありました。
波や流れの影響とは微妙に異なる、選手の動きにわずかな妨害があったことを私は確認しています。
しかし石井選手は問題なく完泳しました。さすが町の英雄です。

その後の自転車区間で、彼は明らかにいつもとは違う挙動を見せました。
ブレーキやハンドルにわずかな異常があり、タイムロスが発生したのです。
普段なら軽々と抜けるはずの区間で順位を落とし、焦りが生じたことでしょう。

ランニング区間では、挽回を試みるために無理なペースで走った結果、転倒してしまいました。
転倒の直前、わずかなコースの変化や障害物も確認しています。
これらは偶然の障害ではなく、少しずつ生じた異変の連鎖です。

そして、救護の対応も通常とは異なる位置やタイミングでした。
そのため、救助が間に合わず、石井選手は命を落としてしまった——私はこのように推理しています」

会場には深い沈黙が訪れた。
トメ子は視線を五人に向け、静かに促した。
「ここで、正直に自分が何をしたのか、そしてどうしてそのような行動をしたのか、順番に話してくれませんか。
誰かを責めるのではありません。私はただ、全貌を知りたいのです」

五人は互いに視線を避けたまま、重苦しい沈黙の中で少しずつ顔色を失っていく。
自分たちの行為が偶然の連鎖で悲劇に繋がったことを、直感的に悟ったのだ。

 


五人は一瞬、沈黙の中で視線をさまよわせた。
やがて、山田ヒロトが肩を震わせながら口を開いた。


僕は、自転車区間でブレーキに少し手を加えました。
理由は…SNSの『いいね』数で負けたのが悔しかったからです。
石井選手が投稿した『朝ランの笑顔』写真は3,000いいね、自分のは12…
『顔じゃなくて努力を見ろよ!』と思い、ついでも、殺すつもりはありませんでした。
整備を手伝ったつもりだっただけです」

五人の中で最初に話すことで、空気は重苦しくなる。
他の四人は互いに視線を避け、次に誰が口を開くかを静かにうかがった。

小川は小さく息をつき、震える声で話し始める。
「私は水泳区間の浮き具やブイの配置を少し調整しました。
理由はスタート地点の横断幕のフォントがダサいって石井君に言われてちょっとカチンと来ちゃって、大会の美意識を守りたかったからです。
結果的に道を少しずらしてしまい、選手動線にわずかな影響を与えたかもしれません。
でも、私は自分の芸術的正義を貫いただけで、事故を起こすつもりはありませんでした」

佐藤は唇を噛み、視線を床に落とす。
「前日の説明会で、石井選手に『資料が見づらい』と指摘されたんです。
プライドを傷つけられて、悔しくてだから当日、コースをこっそり簡略化しました。
まさか事故を誘発する地形のズレにつながるなんて、夢にも思いませんでした」

高橋は息を整え、言葉を選ぶように話す。
「石井選手が取材で弊社のロゴを後ろ向きに映してしまったんです。
カメラ映えしないことに腹を立て、スポンサーの体面を守ろうと選手動線をよりフォトジェニックな位置に変更しました。
救護エリアの位置に影響するとは考えていませんでしたでも、結果としてそうなってしまいました」

最後に、吉田が肩を落として口を開いた。
「救護所の冷房温度を少し勝手に下げました。
石井選手が『ここ寒いっすね』と言ったので、設定を26度から28度に変えたことを根に持ち、次に来ても冷たくしてやろうと思ったんです。
酸素ボンベの圧も少し調整しました。悪ふざけのつもりでしたまさか命に関わる結果になるとは」

 

トメ子は静かに帽子のつばを押さえ、全員に向き直る。

「皆さん、それぞれ独立して行動していました。
誰も他の人が何をしていたかはらなかったようね
しかし、この五人の小さな作為が偶然に連鎖して、石井タカシ選手の命を奪う結果となったのです」

両親は涙を流しながらも、深く頷いた。
洋一も静かに波打ち際の夕陽を見つめる。


五人の吐露が終わった瞬間、会場の空気がぱりりと裂けたように張り詰めた。
雅子の顔が真っ青になり、目に血走った光が宿る。ハンカチは地面に落ち、彼女は立ち上がると五人の前に体を投げ出すように歩み寄った。

「何を言ってるのよ! あなたたちのちょっとが私のタカシを返せるの!? ふざけるのもいい加減にして!」
声は震え、喉を引き裂くようだった。雅子の指が波打つように震え、誰かの胸ぐらを掴まんばかりに手を伸ばす。隣の洋一は、最初は呆然としていたが、やがて堰を切ったように叫んだ。

「タカシを返せ! おまえらが何をしたんだ! 理由だって? くだらねえ言い訳ばかりじゃないか! 息子は——
言葉はそこで砕け、洋一は嗚咽に変わった。膝が震え、全身を震わせながらも、指先は怒りで硬直していた。

周囲が騒然となる。五人は顔を伏せ、誰も彼らを責める資格はないことを知りながらも、身のすくむような視線を受け止めるしかなかった。小川の唇は青ざめ、吉田は手で顔を覆い、佐藤は震える手で眼鏡を押し上げた。山田は膝から崩れ落ちそうになり、床を睨むようにして息を荒げていた。

すかさず警察官が前に出て、雅子と洋一の間に割って入った。制服の腕が伸び、両親の身体をそっと押し戻す。物理的に止める力は強いが、その表情には同情が刻まれている。
「奥様、旦那様、落ち着いてください。今は話し合いの場です。暴力は許されません。私たちが事実関係を整理します」

雅子は振り向き、警察官の胸ぐらに手をかけようとする。だがその手は空を切り、ふと我に返った瞬間、彼女の身体は力尽きるように崩れた。洋一は腕を振りほどこうとして、もう一人の警察官に羽交い締めにされる。彼らの動きは粗暴で、悲しみと怒りの渦がいかに凶暴になり得るかを見せつける。

その混乱の中で、トメ子がゆっくりと前に出た。彼女は雅子の近くにしゃがみ、震える母親の両手を取る。声は低く、それでいて切実だった。
「雅子さん、私もお母さんの気持ちは分かります。分かりすぎるほどに。だけど、ここで手を出してはいけない。これを法で、事実で解かなければ、タカシさんのためにもならないんです」

雅子はトメ子の手を振りほどこうとするが、やがて手の震えが少し収まり、嗚咽だけが残る。トメ子はそっと額に手をやり、顔をそっと寄せるようにして囁いた。警察官は背後で静かに周囲を統制し、記者たちも距離を取ってカメラを下げた。

やがて洋一は押さえられたまま、小さな声で絞り出した。
……息子を奪ったんだ。どう責任を取るんだ……

警察官は冷静に書類を取り出し、複数の担当者に告げるように言った。
「皆さん、この場での感情的な対立はここまでです。法的な手続きを進めます。まずは事情聴取と証拠の整理を続け、関係者の拘束や処分はその上で判断します」

雅子は荒い息をつきながらも、今は暴力を振るう力は残っていない様子で、でも眼にはまだ怒りの炎が消えていなかった。トメ子は両親の手を優しく包んだまま、警察に向かって小さく頷いた。
「私も、真実を明らかにします。タカシさんのためにも、必ず」

会場には重苦しい静けさが戻り、しかしその静けさは収束ではなく、これから始まる厳しい手続きと追及の予感を孕んでいた。

 

エピローグ

警察に取り押さえられた関係者たちが徐々に会場を後にし、波打ち際には静かな空気が戻りつつあった。
石井タカシの両親はまだ深い悲しみの中にいるが、トメ子がそっと肩に手を置き、言葉をかける。

「悲しい気持ちは消えません。でも、こうして全ての事実が明らかになりました。タカシさんもきっと、納得してくれると思います」

雅子はまだ涙を拭いながらも、小さく頷く。洋一もゆっくりと息を整え、夕陽に照らされる海を見つめた。
その背後では、ボランティアや大会関係者が後片付けを始め、砂浜には笑い声や足音が少しずつ戻ってくる。



その背後で、黄色いTシャツのおばちゃん応援団が集まり、まるで悲劇の観客のように大げさに嘆き悲しんでいた。
「タカシー!ああ、もう二度と笑顔を見られないのね!」
「町の宝がこんな形で信じられないわ!」
一人は砂浜にひざまずき、両手で顔を覆って号泣。別の一人は波打ち際に向かって大声で「お願いー!戻ってきてー!」と叫び、思わず後ろの子供たちが吹き出してしまうほどだった。

その様子を見たトメ子は、軽く肩を揺らして微笑む。
あの人たち、本当に石井さんが好きだったんですね
ユキも笑いをこらえながら、小さく頷いた。
ケイジはドローンの映像を片手に、彼女たちの悲劇的だけどどこか滑稽な姿に目を細める。

悲しみは消えない。しかし、黄色い声援の余韻とおばちゃんたちの大げさな取り乱しが、砂浜にほんの少しの軽やかさをもたらす。
空には爽やかな風が吹き、波の匂いが潮風と混ざる。どこかに小さな風船が舞い上がり、子どもたちが追いかけて笑う。

トメ子は砂浜に立ち、遠くの海を見つめながら深呼吸した。
そして、帽子のつばを押さえ、力強く締めの言葉を告げる。
「トライアスロンは……正義よ!」

波が穏やかに砂浜を洗い、夕陽に照らされた町は、次の明日へと静かに息をついた。
その横で、おばちゃん応援団は砂まみれになりながらも、まだ声を張り上げて「タカシー!あんたの勇姿、忘れないからねー!」と叫び続けていた。


田所トメ子の事件簿:完走できなかった英雄~完』

 

 登場人物

田所トメ子
主婦探偵。観察力と推理力で小さな違和感を見逃さない。事件現場では帽子を深くかぶり、真剣な眼差しで調査を進める。

田所ケイジ
夫。ドローンやスマホで現場を撮影し、証拠収集をサポートする。意外に機械音痴でドジを踏むことも。

田所ユキ
娘。大会の公式アナウンスを手伝うボランティア。表向きは元気だが、裏でメモ魔。選手やスタッフの細かな動きを記録している。

石井タカシ
町の誇るエース選手。今回の大会で優勝候補だったが、水泳区間で命を落とす。爽やかな人気者だが、一部の人間には反感も買っていた。

山田ヒロト(ライバル選手)
石井に勝てないことに苛立ち、自転車区間で妨害を仕掛ける。

小川ミナ(芸術肌の市民ランナー)
「競技は美しくあるべき」という独自哲学から、ランニングコースに不自然な細工をする。

佐藤マサル(大会スタッフ)
コース設営やルール説明を担当。表向きは冷静だが、石井と過去に確執がある。

高橋アヤカ(スポンサー担当)
成績が企業広告に直結するため、石井の存在が邪魔に。大会後援企業の利益を最優先に考えている。

吉田タクマ(救護スタッフ)
医療知識を悪用し、石井の死亡を「事故死」に偽装する。

   刑事

   おばちゃん応援団
   石井タカシのおっかけ。彼の雄姿を一目見ようと沿道で選手を応援する町の名物おば        ちゃんたち


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予告編

『鵺ノ――金田一ポン助霊怪事件帖』

 夢と現の狭間に揺れる(ぬえ)のささやき

霧が濃く立ち込める山奥の寺。
闇に沈む堂内、誰もいないはずの空間に、かすかな囁きが響く――
夜の静寂を切り裂く、鵺の鳴き声。
鵺の鳴き声が響くとき、何かが必ず起こる。

影が揺れ、異形の気配が蠢く。
金田一ポン助は、冷静な瞳でその奥に潜む何かを見極めようとする。
過去の怨念が、今、形を変えて甦る――

次回作、「鵺ノ夢――金田一ポン助霊怪事件帖」。
闇の向こうで、あなたを待つものとは




12月1日(月)公開予定

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