『明智小誤郎と魔曲の美女 赤き旋律の惨劇』第2話
第二話 血を呼ぶフルート
――音楽は、時として血を呼ぶ。
旋律は魂を救いもすれば、同時に破滅をもたらす。
この世に「呪われた音色」というものがあるとすれば、それは或いは、魔曲の女・小塚仁子の指先に宿る宿痾のようなものかもしれぬ。
大楽器商の社長、藤村信三殺害のあったコンサートの夜から一週間。
東京の楽壇はざわめきと噂に満ちていた。
「魔曲の美女、再び舞台に立つ」
――今夜開かれる彼女のリサイタルの新聞の見出しは躍り、週刊誌はこぞって特集を組んだ。
その熱狂と恐怖の坩堝に、またもやあの奇人が姿を現す。
――自称探偵、明智小誤郎である。
「ふふふ、音とは即ち空気の震動! すなわち物理学的殺人もまた可能なのだよ!」
黒木警部の溜息をよそに、彼はホールの座席で妙に得意げに語っていた。
「ねえ警部、貴方は“共鳴”という現象をご存じか? 例えば、ワイングラスに声を当てると――」
「壊れる、だろう。だが人間はガラスじゃない」
「いや! 人体もまた“振動体”だ! 脳漿も、血潮も、ある周波数で――」
「はいはい。分かったから黙って座ってろ」
黒木は帽子を深く被り、観念したように煙草を取り出した。が、禁煙であることを思い出し、すぐに名残惜しそうに煙草をしまった。
この男が黙るときは、事件が始まる時だと、もう経験で知っている。
開演前のロビーには、取材陣が群がっていた。
その中に、ひときわ細身の若者が立っていた。
記者・杉本修一。
先日の毒殺事件を独自の筆致で報じ、一夜にして名を上げた男である。
「おや、あなたが噂の探偵さんですか?」
柔らかく微笑み、杉本は名刺を差し出した。
「僕、音楽誌《メトロポリス・トーン》の杉本です。いやぁ、小塚さんの事件、すごい反響で。
次はどんな“死の音楽”が聞けるんでしょうね」
その言葉に、黒木警部は眉をひそめたが、小誤郎は妙に満足げに頷いた。
「うむ、良い質問だ! 実に学術的関心に満ちている!」
「ええ、僕は“観客の反応”に興味があるんです。
――人は、どこまで静寂に耐えられるか」
「……何だって?」
「いえ、取材ですから」
軽く頭を下げ、杉本は会場の暗がりへと消えた。
黒木は小声で呟いた。
「……何か妙な奴だな」
「うむ、天才は往々にして奇矯なものだ」
「お前もな」
――その夜。
舞台は深紅の幕に包まれていた。
ヴァイオリンの夜から一週間。あの「赤いリサイタル」の惨劇にもかかわらず、観客席は再び満席であった。
人は恐怖を忘れる。いや、恐怖に酔うのだ。
――魔曲の美女、小塚仁子。
彼女の奏でる音が死を呼ぶと知りながら、人々はその音を待ち焦がれていた。
照明がふっと落ちる。
沈黙。
次の瞬間、スポットライトが一点、舞台中央を照らす。
そこに立つ女の姿。
今宵の彼女は、ヴァイオリンではなく、銀色のフルートを携えていた。
赤衣の袖から覗く腕が、冷たい金属の光を受けて妖しく輝く。
髪は夜の川のように流れ、唇は一筋の血のように濃い。
客席の中央やや左寄り――、指揮台を斜めに見上げる絶妙な位置に、一人の男が腰かけていた。
作曲家・矢田俊哉。
白いタートルネックにグレーの上着、その手には自らの作品集と思しき楽譜が握られている。
彼の目は仁子を見つめながらも、どこか遠くを見ていた。
まるで、今宵の音が彼自身の運命を奏でることを知っているかのように――。
ときおり小さく頷き、口元で旋律を追うその姿は、音楽家というよりも祈祷師のようであった。
この夜、演奏される曲《緋色のノクターン》は、まさしく彼の手によるものだった。
矢田は若くして音楽界に名を馳せながらも、名声よりも“絶対的なる音”の探求に心を蝕まれていた。
そして、そんな彼の前に突如として現れたのが、小塚仁子である。
彼女の音に初めて触れた瞬間、矢田は己が作り出す音のすべてが、仁子という存在を讃えるためにあったと悟った。
その紅き衣と艶やかな指先、そして音に宿る魔性。
彼は理性では作曲家でありながら、心ではひとりの信徒であった。
芸術と狂気は紙一重である――と古来しばしば語られるが、矢田においてその境界はもはや存在しなかった。
《緋色のノクターン》は、彼が仁子に捧げた愛の賛歌であると同時に、己が魂を供物として捧げる“音の祈祷書”でもあったのだ。
それゆえ、彼の目には恐怖と陶酔とが奇妙に入り混じっていた。
彼は知らぬ間に、魔曲の女に魅入られ、その音の虜囚となっていたのである。
最初の一音が、会場を貫いた。
冷たく、鋭く、切っ先のような音。
それはもはや音楽ではなく、空気そのものを切り裂く刃であった。
観客たちは息を止め、心臓の鼓動すら音に掻き乱される。
作曲家・矢田俊哉が座っている席からほど近い報道席では、先ほどの若き記者・杉本が、メモ帳を開いた。
彼はペンを握ると、ゆっくりと目を閉じた。
「――静かだ。いい音だ」
誰にも聞こえぬほどの声で呟く。
音楽は次第に狂気を孕み始める。
旋律は不自然に跳躍し、調性が崩壊し、
金属と人間の境界が曖昧になっていく。
仁子の唇は白く、指は震え、
それでも演奏は止まらない。
演奏は緩むことなく佳境へと移っていく...
その瞬間であった。
客席の前方、作曲家・矢田俊哉の席で、かすかな音がした。
フルートの高音とともに、空気が細く裂ける。
矢田の首筋に、赤い線が浮かび、血が静かに流れ落ちた。
譜面が膝から滑り落ち、白い紙の上に一滴の紅が落ちる。
それはまるで、音符の一点が血に変わったかのようだった。
黒木警部はわずかに身を乗り出した。
隣の席で居眠りを装っていた痩身の男――明智小誤郎が、眼鏡の奥で目をぎらりと光らせる。
「……むっ、あれを見たまえ、警部。あの男の顔色!」
「なに……?」
黒木は唇を噛んだ。
矢田は完全に静止している。
その首元には確かに――赤い線。
「やめろ、明智、今は演奏中だ!」
「いや、今だからこそだ! これは音の殺人だぞ!」
「またその調子か……!」
黒木が立ち上がろうとするが、その瞬間、隣の客に袖を引かれた。
振り返ると、観客全員が一様に前を向き、動かぬまま、まるで蝋人形の群れのように座っている。
表情は恍惚、瞳はうるみ、口元には微笑。
誰ひとりとして、死を見ようとしない。
彼らは仁子の音に酔っていたのだ。
小誤郎は息を呑んだ。
「なんという催眠効果だ……! これは単なる音楽ではない。音が脳髄を支配し、人間の意識を麻痺させている!」
黒木は眉をひそめる。
「おい、落ち着け。今、あの女が止めれば――」
だが舞台上の仁子は、止めなかった。
まるで何も起こっていないかのように、フルートを唇にあて、
銀の指輪を嵌めた指を、正確無比なリズムで動かし続けている。
音は冷たく澄み渡り、観客の頭上に霞のように漂う。
血の匂いすら、旋律の香にかき消されていた。
黒木と小誤郎だけが、現実に取り残されている。
「やめろッ! 演奏を――!」
黒木が叫んだ。だがその声も音に呑まれ、誰の耳にも届かない。
観客は夢の中にいる。
その夢の中心に、赤衣の女がいた。
やがて、楽章が終わる。
最後の一音が凍りつくように消えた瞬間、仁子はゆるやかにフルートを下ろした。
顔色一つ変えず、静かに一礼する。
赤衣の裾が揺れ、照明が彼女の輪郭を白く縁取った。
そして――舞台袖へと消える。
沈黙。
それから、嵐のような拍手。
観客は恍惚と立ち上がり、喝采を送る。
誰も、血を流して倒れた作曲家の存在に気づかない。
それどころか、彼の姿を“舞台装置の一部”とでも思ったかのように、
彼らは微笑みながら称賛を続けた。
黒木警部は額を押さえ、低く呟く。
「……この国の聴衆は、もう人間じゃねえな」
隣で小誤郎は、うっとりとした顔で頷いた。
「うむ。まさに――芸術とは狂気そのものだ」
嵐のような拍手が鳴り止んだのは、それから五分後のことだった。
まるで夢の終わりを告げる鐘のように、誰かの悲鳴がホールを裂いた。
「ひ、人が……! 前の席の人が血を流してる!」
次の瞬間、歓声は悲鳴へと変わった。
観客たちは我に返り、椅子を倒しながら出口へ殺到する。
恐怖の渦、割れるガラス、飛び散るパンフレット。
つい先ほどまで音楽に酔いしれていた顔が、次々と蒼白に染まる。
黒木警部はすぐに矢田の死を確認し、顔を上げた。
「明智、行くぞ。楽屋だ。あの女、何か知ってるはずだ!」
「もちろんだとも!」
小誤郎は興奮した様子で帽子を押さえ、長いコートを翻した。
舞台袖の奥、照明の消えた廊下を進むと、扉の隙間から一筋の光が漏れていた。
黒木がノックもせずに扉を押し開けると、
そこには――赤衣を脱ぎかけた仁子の姿があった。
真紅のドレスは椅子の背に掛けられ、彼女は白いショールを肩にまとっていた。
背中越しに振り向くその仕草には、疲労と官能と、何よりも冷たい静寂が混じっていた。
「あら……もう、お客様はお帰りですか?」
その声は氷のように澄んでいた。
黒木は咳払いをして前に出た。
「質問に答えてもらう。あんたのフルートを見せてくれ」
仁子は小さく頷くと、鏡台の上から銀色のフルートを取り上げ、
まるで恋人を差し出すように両手で渡した。
小誤郎は食いつくようにそれを受け取る。
「ふむ、これが人を殺した“音”か!」
黒木が呆れ顔で言う。
「おい、落ち着け。見るだけだ」
「いや、警部、これは尋常ならざる構造だぞ!」
彼はフルートを逆さにし、目を覗き込み、息を吹きかけたり、耳を当てたりした。
「見たまえ、この内部の反射角度! 金属の響きが一点に集中しておる。つまり――」
彼は胸を張った。
「このフルートは、音速の刃を放つ暗殺兵器なのだ!」
「出たな、音速の刃……」黒木が額を押さえた。
「だから言ったろ、そんなもんあるか!」
仁子は微笑んだ。
「探偵さん、面白い方ですね。では――その“刃”で、どうぞ私を斬ってごらんなさい」
挑発するように一歩近づく。
白いショールが肩から滑り落ちる。銀の笛が光った。
小誤郎はたじろぎ、慌てて笛を黒木に押し付けた。
「け、警部、試してみたまえ!」
「冗談じゃねえ!」
仁子は静かに笑った。
「私の音が人を殺すなら、なぜ私はまだ生きているのかしら」
その言葉に、黒木も小誤郎も言葉を失った。
仁子は背を向け、鏡越しに二人を見据える。
「私の音は、人を殺すためにあるのではない。
――真実を暴くためにあるのです」
その声音には、凍てつくような響きがあった。
小誤郎は背筋を震わせながらも、どこか満足げに頷いた。
「ふむ……やはり、そう来たか。実に面白い。ますます謎は深まったぞ、警部!」
黒木は重い溜息をつき、帽子を深く被り直した。
「……頼むから、次の“演奏”までに事件を解決してくれよ」
2人は特に何も手がかりらしいものも掴めないまま、その場を後にした。
――こうして、第二の“音楽殺人”は幕を閉じた。
第三話 呪いの楽譜 ―予告―
連弾の舞台で、血に染まる鍵盤――。
再び、音楽が死を呼ぶ。
明智小誤郎は「譜面そのものが呪われている!」と叫び、
黒木警部は頭を抱える。
だが、血痕が導いた名は――「KUGA」。
師弟の絆が、今、赤い音符に裂かれる。
登場人物
明智小誤郎:自称探偵。毎回突拍子もない推理で混乱を招くが、偶然真相に辿り着く。
小塚仁子:魔曲の美女。赤い衣装で舞台に立ち、あらゆる楽器を操る。
久我弘道:仁子の元師匠。影のある人物。
杉本修一:音楽雑誌の若手記者。
黒木警部:刑事。小誤郎の奇怪な推理に頭を抱える。
藤村信三:楽器商社長。第一の犠牲者。
矢田俊哉:作曲家。第二の犠牲者。
三浦礼子:ピアニスト。第三の犠牲者。
玉置絵里:仁子の衣装デザイナー。怪しい言動で疑われる。
相馬貞夫:ホール支配人。興行への打撃を恐れて仁子を憎む。
長谷川文子:仁子のライバル。彼女を中傷し続ける
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