『明智小誤郎と魔曲の美女 赤き旋律の惨劇』第3話
第三話 呪いの楽譜
――音は、血を呼ぶ。
血は、記憶を刻む。
そして記憶こそ、最も残酷な旋律である。
二つの死が、音楽界を沈黙させた。
――藤村信三、矢田俊哉。
その死は奇妙にも、小塚仁子の演奏会の夜に起こった。
警視庁捜査一課は総力を挙げた。
楽器、譜面、照明、衣装、薬物――ありとあらゆる角度からの検証が重ねられた。
だが、いかなる毒も、凶器も、犯意の痕跡すら見つからない。
まるで音そのものが殺したとしか思えぬ不可解さに、
刑事たちはしだいに言葉を失っていった。
記者会見で黒木警部が吐き捨てる。
「……音で人を殺せるもんか。だが、現に死んでるんだ」
明智小誤郎はその隣で、懐中時計を弄びながら微笑んだ。
「警部、あなたは“可聴域”というものをご存じかね? ――」
「もういい!」
黒木は頭を掻きむしり、記者たちのフラッシュを避けるように退席した。
誰もがこの奇怪な連続死を“呪い”と呼び始めていた。
そんな中、楽壇を震撼させる報が届く。
小塚仁子が、再び舞台に立つという。
演目は「二台のピアノのための幻想曲《双極(ディアポソン)》」。
共演は女流ピアニスト・三浦礼子。
日取りは、最初の事件からちょうど四十九日目の夜――。
新聞各紙の文化欄は、狂気と崇拝の混じった論調で報じた。
“死を呼ぶピアニスト、再演決定”
“呪われた音楽は再び鳴るのか”
“芸術か、殺人か”
発売と同時にチケットは完売した。
ホールの外には長蛇の列ができ、ダフ屋が「魔女の音、あります」と囁いた。
人々は恐怖に飢え、恐怖を欲望として買い求める。
――文明とは、恐怖を消費する装置にほかならぬ。
そんな中、とある新聞社の文化部に配属されたばかりの若手記者・杉本修一は、
ひとり、記者クラブの隅で古びたレコードを聴いていた。
小塚仁子の過去の演奏記録――事件の前夜、
彼女が弾いた“ある変奏”の一節。
音は割れていた。
だがその中に、杉本には確かに聞こえた。
呼吸のようなノイズ。
まるで、誰かが譜面の奥から囁いているような音が。
「これ、普通の残響じゃない……」
彼はヘッドホンを外し、
机の上に置かれた仁子の新しいコンサートのチラシを見つめた。
《小塚仁子 × 三浦礼子 二台ピアノの夕べ》
――会場・満席。
杉本はため息をつきながら呟いた。
「また、彼女だ……」
その夜、満席の会場には、
まだ誰も知らぬ第三の悲劇が、静かに開幕を待っていた。
今宵、2台のピアノ、その舞台袖には、仁子の宿敵にしてライバル、長谷川文子の姿があった。
彼女は腕を組み、唇の端に薄い笑みを浮かべながら、仁子を見つめていた。
「人を殺す音楽、ね……。なら今夜は、どちらが“奏者”でどちらが“死者”になるのかしら」
その囁きは、まるで絹を裂くように冷たかった。
リハーサル室。
仁子は一人、鏡の前に座していた。
赤衣を脱ぎ、代わりに乳白色のシルクのブラウスを身に纏っている。
その指先は微かに震え、まるで見えぬ旋律を空中に描くように動いていた。
鏡には、二人の仁子が映っていた。
ひとりは静謐に、ひとりは激情に。
彼女は両手を合わせ、ゆっくりと瞼を閉じた。
――音とは、皮膚で聴くもの。
指の腹が鍵盤の冷たさを思い出し、呼吸が音に変わる。
楽屋の窓から差し込む灯りが、ピアノの黒光りを舐めていた。
その反射が仁子の頬を撫で、まるで彼女の肌そのものが楽器の表面に融け込むかのようだった。
その光景には、宗教画にも似た静かな官能があった。
音楽とは肉体を超える祈りであり、同時に、肉体そのものの震えでもある。
彼女は唇を濡らし、低く呟いた。
「――私の音は、血ではなく、真実を流すためのもの」
開演。
ホールは赤と黒の照明に包まれ、二台のグランドピアノが左右対称に置かれていた。
その中央、指揮者もいなければ、言葉もない。
ただ、二人の女が座る――小塚仁子と三浦礼子。
長谷川文子は客席最前列の端で腕を組み、妖艶に微笑んだ。
その瞳には、確かな侮蔑があった。
「あなたの“魔曲”、私が聴き届けてあげるわ……地獄の音色をね」
最初の一打は、静寂そのものを裂いた。
仁子の音は光、三浦の音は影。
ふたつの旋律は絡み合い、やがて対位法の罠となって互いを締め上げた。
左のピアノが悲鳴を上げ、右のピアノが応える。
音は呼吸し、呼吸は死を孕む。
観客は息を呑んだ。
まるで音が可視化され、会場全体に目に見えぬ網を張り巡らせているかのようだった。
黒木警部は背筋を伸ばし、隣で腕を組む明智小誤郎を睨んだ。
「なあ、お前まさか……今日も“音の波動”とか言うつもりじゃねえだろうな」
「ふふふ、警部。音とは波動にして、波動とはすなわち世界の構造だ。
ピタゴラスもプラトンも言った――宇宙は調和であり、人間もまた一つの和音なのだ」
「つまり、また訳の分からんことを言うってことか」
「その通り!」
黒木は額を押さえた。
舞台上では、二台のピアノがまるで二つの生物のように呼吸を合わせていた。
冒頭のトニック(ハ長調)はすでに崩壊し、
今は嬰ト短調――不安と熱狂を孕む音域に転じている。
三浦の左手が低音部でオスティナートを繰り返し、
仁子の右手は半音階的な上昇を重ねる。
その和声の衝突が、聴く者の神経を焼き尽くす。
「ほう……」明智は小声で呟いた。
「属和音が、主音を拒絶している。まるで帰る場所を失った魂のようだ」
黒木は眉をひそめた。
「お前、音楽の話をしてるのか、殺人の話をしてるのか、どっちだ」
「同じことだよ、警部。――この曲では、調性そのものが崩壊する」
リズムが加速する。
2/4拍子が3/8に変わり、三浦の左手がトリルを刻む。
仁子はその上にポリリズムを重ね、
異なる拍感が互いを食い破るように進行していく。
もはや拍も調も存在しない。
ただ、二つの意志が音の海で互いを呑み合っていた。
観客は息を止めた。
音の重心が右から左へ、左から右へ、
まるでホール全体が巨大な振り子のように揺れている。
壁面が震え、天井の照明が微かに唸る。
音はもはや空気の震えではない――それは肉体を刺す刃であった。
仁子の旋律は極限まで上昇し、
高音域でE♭からF♯へ、禁じられた増二度の跳躍を描く。
その不安定な和声が、三浦の心拍に呼応するように加速した。
息が乱れ、目が潤む。
まるで二人のピアノが、互いの心臓を共鳴させ合うように。
「見ろ、警部。あの構造だ――属七が支配している。
安定を拒み、永遠に解決しない和声……死者の音だ」
黒木は呆然と呟いた。
「死者の、音……?」
その瞬間、舞台全体が閃光に包まれた。
和音が崩壊し、**不協和音(ディソナンス)**が弾ける。
聴衆の誰もが、その瞬間を“頂点”だと思った。
――しかし、次の瞬間。
三浦の指が、止まった。
ほんの一拍。
だがその沈黙は、音よりも深く、観客の鼓膜を刺した。
彼女の手首が微かに震えた。
高音部の鍵盤を押し損ねた指先が、
まるで何かに引き戻されるように宙を泳ぐ。
次いで、胸の奥で何かが爆ぜた。
音ではない。
だが、彼女自身が――内側から音を発したのだ。
息が吸えない。
口が開く。
声にならぬ呻きが、音楽の残響と交じり合って空気を震わせた。
仁子はその異変を感じたが、演奏を止めなかった。
彼女の耳は、まだ曲の終わりを許していなかった。
「最後の和音まで――生きなければならない」
そんな祈りのような決意が、彼女の指を走らせる。
三浦は背筋を反らせ、瞳を見開いた。
光が一点に集まる。
顔から血の気が引き、白粉のように蒼白になる。
頸の下で心臓が狂ったように鼓動し、
鍵盤の上に落ちた汗が、音符のように光った。
観客席の空気が一斉に凍りつく。
誰もが息を呑み、指先ひとつ動かせなかった。
ホールの照明が一瞬、震えたように明滅する。
三浦の左手が、無意識のまま最後の和音を叩いた。
――E♭。
音は震え、すぐに崩れ落ちた。
彼女の身体が前のめりに傾く。
椅子の脚がかすかに軋み、
楽譜が宙を舞う。
その紙片が照明を受け、白い蝶のようにひらめいた。
次の瞬間、
その身体が鍵盤に崩れ落ちた。
ドン――。
重い音が床を震わせ、
ピアノの蓋が共鳴して微かに鳴った。
その和音は、不気味なまでに完璧だった。
誰もがそれを“曲の終止”だと思った。
だが、それは生の終止符だった。
悲鳴が起こる。
だが仁子は演奏を止めなかった。
瞳を閉じ、最後の和音を静かに打ち鳴らす。
その一音は、祈りにも似ていた。
そして、静寂。
ピアノの余韻だけが、ゆっくりと空間の底に沈んでいく。
仁子は硬直したまま、隣のピアノを見た。
三浦の体は鍵盤に覆いかぶさり、
その頬に反射したライトが、不気味な白さを放っていた。
――動かない。
黒木警部が立ち上がった。
椅子が軋み、観客がざわめく。
「医者を! 誰か医者を呼べ!」
その声が響いた瞬間、会場のどこかで誰かが泣き叫んだ。
仁子の視線が、ふと譜面台に落ちた。
それは、倒れた三浦の手に触れ、斜めに傾いていた。
ページの中央には、紅い斑点が散っている。
最初はただの血飛沫に見えた。
だが――仁子の目は、そこに音符の配列と同じ秩序を見た。
血の点は、譜面上の五線をなぞるように連なり、
ト音記号の上、第二線から第四線にかけて、奇妙なリズムを描いていた。
それはまるで、音が名に変わる瞬間のようだった。
「……まさか」
仁子の唇が震える。
黒木警部が駆け寄り、譜面をのぞき込む。
血の跡は、冷たく乾き始めていた。
それは、まるで何者かの意志をもって配置されたかのように、
五線上でひとつの文字列を形成していた。
――KUGA。
「く、久我……?」
黒木が息を呑んだ。
その名を口にした瞬間、明智小誤郎が低く囁いた。
「見たまえ、警部。
血痕は偶然ではない。
この曲の構成、第二主題の和声展開は、
まさにK–U–G–Aの音列を暗号化したものだ。
Kは嬰ハ短調の主音、Uは上方四度、Gは完全五度、Aは長六度――
つまり、“久我”の名そのものが、この楽譜の骨格を成している!」
「おい、何を言ってる……そんな偶然が――」
黒木の言葉を遮るように、
ピアノの弦がひとりでに鳴った。
高音弦、A♭の共鳴。
倒れた三浦の手が、微かにその弦に触れていた。
それはまるで、死者がまだ指で“証言”しているかのようだった。
観客の悲鳴。
報道カメラの閃光。
仁子の視界が白く滲む。
――師の名。
――血で書かれた、呪いの署名。
仁子は思わず膝を折り、
譜面に手を伸ばした。
その指先が触れた瞬間、紅が指に滲む。
それはもはや血ではなかった。
まるで、音そのものが液化したかのような温度を帯びていた。
「師匠……どうして……?」
仁子の声は、会場の誰にも届かなかった。
ただ、崩れ落ちた彼女のピアノだけが、
余韻の中で微かに唸り続けていた。
混乱は一瞬でホールを呑み込んだ。
ざわめきが波紋のように広がり、
観客が立ち上がり、携帯の光があちこちで点滅する。
悲鳴、祈り、怒号。
まるで音楽が終わったのではなく、
世界そのものが破調したかのようだった。
仁子は舞台の片隅で膝を抱えていた。
自分の耳の奥で、まだ音が鳴り続けている。
それは、三浦の指が叩いた最後のE♭の残響――
音の墓碑銘。
黒木警部は手帳を取り出し、
目を血走らせながら叫んだ。
「全員、席を立つな! 関係者以外、舞台に上がるな!」
しかしその声は、誰の耳にも届かない。
報道カメラの閃光が乱舞し、
ひとりの老人が倒れ、係員が走り寄る。
音楽会はもはや葬儀と化していた。
客席の中ほどで一人の男が立ち上がった。
若い、少し頼りないスーツ姿。
胸ポケットには、古びたペン。
――杉本修一。
彼はカメラを構えたまま、呆然と舞台を見ていた。
ファインダー越しに見えるのは、
鍵盤に崩れた三浦の手と、
その横で血に染まる譜面。
「……シャッターを切れない」
杉本は小さく呟いた。
指が震えていた。
記者としては撮らねばならない。
だが、何かがそれを拒んでいる。
彼の耳にはまだ、音が残っていた。
――最後のE♭。
その振動が空気ではなく、
胸骨の内側で鳴っているように感じられた。
黒木の怒声が飛ぶ。
「撮れ! 記録を残せ!」
杉本は一瞬、我に返り、
シャッターを押した。
閃光。
その瞬間――
ファインダーの中に、何かが写った気がした。
譜面の上、血の文字の向こうに、
もう一つの影のような手が。
彼は思わず後ずさった。
だがその“影”が何であったのかを、
このとき彼はまだ知らない。
その喧噪の中、
明智小誤郎は静かに譜面台の前に立っていた。
白手袋を嵌め、血に濡れた譜面をそっとめくる。
「ふむ……これは、美しい構造だ」
黒木が振り向く。
「美しいだと? 人が死んでんだぞ!」
「警部、死もまた構造の一部です。
この楽譜は――“設計”されています」
明智は譜面を光に透かした。
赤黒い血痕の裏に、淡い鉛筆の線が浮かぶ。
音符ではない。
それは、見えない線――五線の間にもう一段、
“偽の五線”が隠されていた。
「見てください。この曲の第二変奏、三浦のパートだけが異常に多声的だ。
通常の二段譜ではない。五線が六本ある。
それは偶然ではない――“隠された段”だ。
そして、その追加線に沿って……血痕が“KUGA”を形成している」
「つまり……最初から、この譜面には“名前”が仕込まれていたってのか?」
「いや、名前ではない。**呪詛(じゅそ)**ですよ、警部。
音による呪いの設計図。
それが奏でられた瞬間――対象が死ぬ。
そういう構造です」
黒木は額を押さえた。
「そんなオカルト、信じられるかよ……」
「オカルト? いや、これは数学です。
音律、周波数、共鳴――
人体もまた音でできている。
ある条件を満たせば、音は人を殺せるんですよ」
そのとき、客席の後方で声が上がった。
「仁子さん!」
長谷川文子だった。
黒いドレスの裾を揺らしながら、
人垣を押し分けて舞台へ駆け寄る。
頬は涙で濡れているのに、瞳は妙に冷たい。
「ひどい……なんてこと……仁子さん、あなたの演奏の途中で……」
彼女は仁子の手を握り、震える声で言った。
だが、その指先は異様に冷たかった。
明智はその様子を見つめ、
譜面を閉じながら小さく呟いた。
「奇妙ですね。
彼女――長谷川文子さんは、
この曲の初稿に携わっていたはずです。
にもかかわらず、驚き方が“作為的”すぎる」
黒木が眉をひそめた。
「おい、まさかあの女が……?」
「まだ何も言ってませんよ。
ただ――音は嘘をつかない。
そして、彼女の声は今、半音低い」
明智の言葉に、黒木は息を呑んだ。
観客のざわめきが遠のく。
残響だけが、まだホールのどこかに漂っていた。
まるで、誰かが次の犠牲者を選んでいるかのように。
夜。
仁子は誰もいない楽屋にいた。
ランプの光が、鏡に映る自分の瞳を揺らす。
彼女は血に濡れた譜面を見つめ、震える手で指をなぞった。
「KUGA……師匠……なぜ?」
鏡の中の仁子が微笑んだ。
「それでも弾くのでしょう?」
「……ええ。音が、私を呼ぶの」
ピアノの鍵盤に指を置く。
その瞬間、楽器の黒光りが彼女の肌を撫でた。
まるで、音と肉体が溶け合う儀式のようだった。
光が音となり、音が熱となり、熱が涙に変わる。
それは芸術が生む唯一の官能――
生と死の境を震わせる音の快楽。
彼女はひとり微笑み、静かに呟いた。
「この音は、呪いじゃない。――真実への鍵よ」
次回予告。
第四話「赤衣の告白」
小誤郎、記者会見で「犯人は仁子だ!」と叫ぶ。
久我弘道の怒号、そして揺らぐ師弟の絆。
真紅の衣が、ついに真実を曝く――。
登場人物
明智小誤郎:自称探偵。毎回突拍子もない推理で混乱を招くが、偶然真相に辿り着く。
小塚仁子:魔曲の美女。赤い衣装で舞台に立ち、あらゆる楽器を操る。
久我弘道:仁子の元師匠。影のある人物。
杉本修一:音楽雑誌の若手記者。
黒木警部:刑事。小誤郎の奇怪な推理に頭を抱える。
藤村信三:楽器商社長。第一の犠牲者。
矢田俊哉:作曲家。第二の犠牲者。
三浦礼子:ピアニスト。第三の犠牲者。
玉置絵里:仁子の衣装デザイナー。怪しい言動で疑われる。
相馬貞夫:ホール支配人。興行への打撃を恐れて仁子を憎む。
長谷川文子:仁子のライバル。彼女を中傷し続ける
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