『明智小誤郎と魔曲の美女 赤き旋律の惨劇』第4話

 


第四話 赤衣の告白

 連続する死の余波は、街の隅々まで届いていた。
 新聞の一面は、どれも同じ写真で埋め尽くされる。
 ――ピアノに崩れ落ちた三浦礼子の姿。
 フラッシュの閃光が、まるで死者を再び舞台に呼び戻しているかのようだった。

 《小塚仁子の演奏中、相棒ピアニスト急死》
 《呪われた楽譜”――またしても音楽会で不可解な死》
 《師・久我弘道の名、血で記された譜面》

 文字は金属音のように耳に刺さる。
 外界は騒がしい。人々は語り、断じ、観察し、批評する。
 だが、誰も――聴いてはいない。

 若手記者・杉本修一は、喫茶店の窓際で記事を読み返していた。
 彼が昨夜撮った写真は、紙面の中央に躍る。
 ピアノの譜面台、その上ににじむ血痕。
 しかし、彼のカメラにはもうひとつの像が残っていた。
 血の向こう、譜面を覗き込むような影。
 現像したフィルムの端に、かすかに浮かぶ。
 人影のようでもあり、音符のようでもあった。

 「……これは、見てはいけないものだ」
 杉本はつぶやき、フィルムを封筒にしまった。
 外では、街のスピーカーが昼のニュースを流す。
 『警視庁は、小塚仁子氏への任意聴取を――

 ――彼女はいま、どこにいるのだろう。

 

 夜。
 仁子はひとり、部屋の灯を落としていた。
 窓の外には雨。
 薄いカーテンの向こうで、街灯が滲んでいる。

 テーブルの上には、一枚の譜面。
 ――血に染まった、あの「呪いの楽譜」。
 彼女は洗い流すことも破り捨てることもできず、
 ただ静かに向かい合っていた。

 音がないのに、音が聴こえる。
 脳の奥で、鍵盤の白と黒が交互に明滅する。
 彼女は両手を伸ばし、
 空中に鍵盤の位置をなぞった。

 指先が触れる。
 ――空気が震える。

 CE♭A♭……
 鳴っていない音が、彼女の体内で共鳴する。
 心臓の鼓動と混じり合い、
 やがて全身が共鳴体となって震え始める。

 仁子は目を閉じた。
 息が浅くなる。
 それは陶酔ではなく、
 罪の記憶に触れた者の震えだった。

 鏡台の鏡が光を返す。
 そこに映った自分の姿――
 白い首筋、指に残る微かな赤、
 頬を濡らす涙の線。

 その瞬間、仁子は思った。
 「わたしの中にも、あの音がある」

 ピアノを弾かずに生きることなど、
 もはや不可能だった。
 それは芸術ではなく、呪縛。
 彼女の指は、音を求めて震える。

 雨音がリズムを刻む。
 部屋の暗がりの中で、彼女の指が一つの音を探す。

 ――A♭

 窓ガラスがわずかに震えた。
 外の闇が、応えるように。

 仁子は目を閉じ、
 その震えを抱きしめるように両腕を組んだ。
 沈黙の中に、誰かの声が聴こえた気がした。

 『……まだ、終わっていない』

 

翌朝、都心のホテル〈グランド・オルフェウス〉の大広間には、報道陣の熱気が満ちていた。
 煌々と照らすシャンデリアの下、長机にはマイクが十数本。
 記者たちは椅子を押し合いながら、まだ開かぬ幕を待つ。
 ――今日、この音楽と死の連鎖に終止符が打たれるのだ、と誰もが信じていた。

そして、記者席の端には長谷川文子が座っていた。
 赤いドレスに身を包んだ彼女の視線は冷ややかで、軽く口角を上げながらも全てを観察している。
 「やはり……あの子か」と、心の中で呟いたような気配があった。

 やがて、舞台袖のカーテンがわずかに揺れた。
 明智小誤郎が姿を現す。
 派手な赤い蝶ネクタイにストライプのスーツ、そして手には何故かチューニングフォーク
 続いて黒木警部、そして沈痛な表情の久我弘道が入場した。

 フラッシュの閃光が降り注ぐ。
 小誤郎は悠々と壇上に立ち、マイクを指で軽く叩いた。
 「諸君! お待たせした! 音の探偵、明智小誤郎だ!」

 ざわめき。黒木警部が眉をひそめる。

 「この事件、私は最初から旋律の中に犯人の影を聴いていた。
  死者たちは皆、音に魅せられ、音に呑まれた。
  だが真に呪われた音を奏でたのは誰か? それを解く鍵は――この文字だ!」

 小誤郎はスクリーンに投影された写真を指差した。
 血で染まった譜面に、くっきりと滲む四つのアルファベット。
 ――KUGA

 「この“KUGA”という文字、皆さんは師の名前だと考えるだろう。
  だが! 私は違うと見る!」
 記者席が一斉にどよめく。久我が顔を上げた。

 「これは、久我先生の名前ではない。音の符号なのだ!
  KKey――調性! UUnison――同音! GGrave――重々しく! そしてAAccuse――告発!
  すなわち『同音の調で重く告発せよ』という暗号!
  つまり、これは――小塚仁子こそが自らを告発している証拠なのだッ!

 ざわっ、と空気が動いた。
 記者たちは一瞬ぽかんとし、次の瞬間、笑いを堪えきれずにざわついた。
 「そんな……」「何を言ってるんだ?」
 黒木警部が額を押さえる。

 だが、小誤郎は勝ち誇ったように身を乗り出した。
 「諸君、思い出したまえ。第一の事件では毒、第二の事件では刃、第三の事件では譜面!
  手段は違えど、そこに共通しているのは演奏者=仁子だ!
  彼女こそが、音の呪いを具現化する存在!
  美しい旋律の裏に、死を呼ぶ波動を宿した――音楽界の魔女なのだ!」

 記者たちの笑いが、やがて別の色を帯びていく。
 「でもその“KUGA”の文字、どう見ても師匠の名前ですよね?」
 「もし本当に彼女が告発された側なら、“KUGA”は犯人の署名では?」
 「久我先生、なぜその譜面をお持ちだったのです?」

 空気が、変わった。
 小誤郎が高らかに腕を振り上げた瞬間、久我の表情に影が落ちる。

 「……待ってくれ。私は、仁子を守ろうと――

 「守る?」
 誰かが声を上げた。
 「なぜ守ると言えるんですか? まるで自分が――

 会場に、フラッシュの嵐が吹き荒れた。
 「“KUGA”の文字」「久我の動揺」「師弟の共謀」――
 記者たちのメモ帳にはその三つの言葉が乱暴に書き殴られていく。

 黒木警部が慌てて前に出た。
 「静粛に! 本件はまだ捜査中だ!」
 だが、もう止まらなかった。

文子はその様子を微笑み交じりに見下ろす。
 「やっぱり、師匠も舞台の一部ね……」
 と、心の中でつぶやく。
 彼女の視線が久我に絡みつくように鋭く、会場全体の心理の潮流を操作しているかのようだった。

 小誤郎がニヤリと笑い、
 「ふむ……皆さんもようやく音の真意が聴こえてきたようだな」と呟く。

 その言葉がまた、久我を追い詰めた。
 沈黙の中、久我は唇を噛みしめ、ただ一点を見つめていた。
 それは、壇上の照明の向こう――
 赤いドレスの幻のように浮かぶ、仁子の姿だった。

 彼女はこの光景を見ているのか、それとも――
 心のどこかで、もうに呑まれているのか。

 


 

 記者会見は混乱のうちに終わった。
 小誤郎は満足げに帽子を被り直し、颯爽と会場を後にする。
 黒木警部は頭を抱え、久我は沈黙のまま額に手を当てる。
 文子は冷ややかな笑みを浮かべ、誰よりも鋭い目で仁子の姿を思い浮かべていた。

 事件の捜査は進展せず、世間には依然として謎と憶測だけが漂う。
 “KUGA”の文字は人々の記憶に残り、久我に対する疑念は薄れるどころか増幅していた。

 数日後、街には次のリサイタルの噂が広がる。
 赤い衣装の仁子が、今度はチェロを奏でる――
 観客たちは恐怖と期待を胸に、ホールへ足を運ぶ準備を整えていた。
 赤い照明の下、舞台の中央に立つ彼女の姿が浮かぶ。

 外の世界で膠着した捜査とは対照的に、舞台上では音が、旋律が、誰にも止められぬ運命の幕開けを告げようとしていた。

 ――次のリサイタルで、再び何かが起こる。
 観客たちの心に、不安と期待が入り混じる。
 明智小誤郎の奇妙な推理もまた、舞台の向こうで音と共鳴するかのように、静かに胸を高鳴らせていた。

 赤い衣装、赤い旋律。
 すべては次のチェロコンサートへと続く――

 

第五話予告・最終話

 赤い衣装の小塚仁子が、チェロを手に舞台へ立つ。
 静寂のホールに魔曲が響き渡り、恐怖と陶酔が入り混じる。
 すべての謎が、ついにこの一夜で明らかになる――
 明智小誤郎の奇妙な推理が、最後に真実を暴く、か?

 

 

登場人物

明智小誤郎:自称探偵。毎回突拍子もない推理で混乱を招くが、偶然真相に辿り着く。

小塚仁子:魔曲の美女。赤い衣装で舞台に立ち、あらゆる楽器を操る。

久我弘道:仁子の元師匠。影のある人物。

杉本修一:音楽雑誌の若手記者。

黒木警部:刑事。小誤郎の奇怪な推理に頭を抱える。

藤村信三:楽器商社長。第一の犠牲者。

矢田俊哉:作曲家。第二の犠牲者。

三浦礼子:ピアニスト。第三の犠牲者。

玉置絵里:仁子の衣装デザイナー。怪しい言動で疑われる。

相馬貞夫:ホール支配人。興行への打撃を恐れて仁子を憎む。

長谷川文子:仁子のライバル。彼女を中傷し続ける

 

 

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