『明智小誤郎と魔曲の美女 赤き旋律の惨劇』第4話
第四話 赤衣の告白
連続する死の余波は、街の隅々まで届いていた。
新聞の一面は、どれも同じ写真で埋め尽くされる。
――ピアノに崩れ落ちた三浦礼子の姿。
フラッシュの閃光が、まるで死者を再び舞台に呼び戻しているかのようだった。
《小塚仁子の演奏中、相棒ピアニスト急死》
《“呪われた楽譜”――またしても音楽会で不可解な死》
《師・久我弘道の名、血で記された譜面》
文字は金属音のように耳に刺さる。
外界は騒がしい。人々は語り、断じ、観察し、批評する。
だが、誰も――聴いてはいない。
若手記者・杉本修一は、喫茶店の窓際で記事を読み返していた。
彼が昨夜撮った写真は、紙面の中央に躍る。
ピアノの譜面台、その上ににじむ血痕。
しかし、彼のカメラにはもうひとつの像が残っていた。
血の向こう、譜面を覗き込むような影。
現像したフィルムの端に、かすかに浮かぶ。
人影のようでもあり、音符のようでもあった。
「……これは、見てはいけないものだ」
杉本はつぶやき、フィルムを封筒にしまった。
外では、街のスピーカーが昼のニュースを流す。
『警視庁は、小塚仁子氏への任意聴取を――』
――彼女はいま、どこにいるのだろう。
◆
夜。
仁子はひとり、部屋の灯を落としていた。
窓の外には雨。
薄いカーテンの向こうで、街灯が滲んでいる。
テーブルの上には、一枚の譜面。
――血に染まった、あの「呪いの楽譜」。
彼女は洗い流すことも破り捨てることもできず、
ただ静かに向かい合っていた。
音がないのに、音が聴こえる。
脳の奥で、鍵盤の白と黒が交互に明滅する。
彼女は両手を伸ばし、
空中に鍵盤の位置をなぞった。
指先が触れる。
――空気が震える。
C、E♭、A♭……
鳴っていない音が、彼女の体内で共鳴する。
心臓の鼓動と混じり合い、
やがて全身が“共鳴体”となって震え始める。
仁子は目を閉じた。
息が浅くなる。
それは陶酔ではなく、
罪の記憶に触れた者の震えだった。
鏡台の鏡が光を返す。
そこに映った自分の姿――
白い首筋、指に残る微かな赤、
頬を濡らす涙の線。
その瞬間、仁子は思った。
「わたしの中にも、あの音がある」
ピアノを弾かずに生きることなど、
もはや不可能だった。
それは芸術ではなく、呪縛。
彼女の指は、音を求めて震える。
雨音がリズムを刻む。
部屋の暗がりの中で、彼女の指が一つの音を探す。
――A♭。
窓ガラスがわずかに震えた。
外の闇が、応えるように。
仁子は目を閉じ、
その震えを抱きしめるように両腕を組んだ。
沈黙の中に、誰かの声が聴こえた気がした。
『……まだ、終わっていない』
◆
翌朝、都心のホテル〈グランド・オルフェウス〉の大広間には、報道陣の熱気が満ちていた。
煌々と照らすシャンデリアの下、長机にはマイクが十数本。
記者たちは椅子を押し合いながら、まだ開かぬ幕を待つ。
――今日、この“音楽と死”の連鎖に終止符が打たれるのだ、と誰もが信じていた。
そして、記者席の端には長谷川文子が座っていた。
赤いドレスに身を包んだ彼女の視線は冷ややかで、軽く口角を上げながらも全てを観察している。
「やはり……あの子か」と、心の中で呟いたような気配があった。
やがて、舞台袖のカーテンがわずかに揺れた。
明智小誤郎が姿を現す。
派手な赤い蝶ネクタイにストライプのスーツ、そして手には何故かチューニングフォーク。
続いて黒木警部、そして沈痛な表情の久我弘道が入場した。
フラッシュの閃光が降り注ぐ。
小誤郎は悠々と壇上に立ち、マイクを指で軽く叩いた。
「諸君! お待たせした! 音の探偵、明智小誤郎だ!」
ざわめき。黒木警部が眉をひそめる。
「この事件、私は最初から“旋律”の中に犯人の影を聴いていた。
死者たちは皆、音に魅せられ、音に呑まれた。
だが真に“呪われた音”を奏でたのは誰か? それを解く鍵は――この文字だ!」
小誤郎はスクリーンに投影された写真を指差した。
血で染まった譜面に、くっきりと滲む四つのアルファベット。
――KUGA。
「この“KUGA”という文字、皆さんは師の名前だと考えるだろう。
だが! 私は違うと見る!」
記者席が一斉にどよめく。久我が顔を上げた。
「これは、久我先生の“名前”ではない。“音の符号”なのだ!
KはKey――調性! UはUnison――同音! GはGrave――重々しく! そしてAはAccuse――告発!
すなわち『同音の調で重く告発せよ』という暗号!
つまり、これは――小塚仁子こそが自らを告発している証拠なのだッ!」
ざわっ、と空気が動いた。
記者たちは一瞬ぽかんとし、次の瞬間、笑いを堪えきれずにざわついた。
「そんな……」「何を言ってるんだ?」
黒木警部が額を押さえる。
だが、小誤郎は勝ち誇ったように身を乗り出した。
「諸君、思い出したまえ。第一の事件では毒、第二の事件では刃、第三の事件では譜面!
手段は違えど、そこに共通しているのは“演奏者=仁子”だ!
彼女こそが、音の呪いを具現化する存在!
美しい旋律の裏に、死を呼ぶ波動を宿した――音楽界の魔女なのだ!」
記者たちの笑いが、やがて別の色を帯びていく。
「でもその“KUGA”の文字、どう見ても師匠の名前ですよね?」
「もし本当に彼女が告発された側なら、“KUGA”は犯人の署名では?」
「久我先生、なぜその譜面をお持ちだったのです?」
空気が、変わった。
小誤郎が高らかに腕を振り上げた瞬間、久我の表情に影が落ちる。
「……待ってくれ。私は、仁子を守ろうと――」
「守る?」
誰かが声を上げた。
「なぜ“守る”と言えるんですか? まるで自分が――」
会場に、フラッシュの嵐が吹き荒れた。
「“KUGA”の文字」「久我の動揺」「師弟の共謀」――
記者たちのメモ帳にはその三つの言葉が乱暴に書き殴られていく。
黒木警部が慌てて前に出た。
「静粛に! 本件はまだ捜査中だ!」
だが、もう止まらなかった。
文子はその様子を微笑み交じりに見下ろす。
「やっぱり、師匠も舞台の一部ね……」
と、心の中でつぶやく。
彼女の視線が久我に絡みつくように鋭く、会場全体の心理の潮流を操作しているかのようだった。
小誤郎がニヤリと笑い、
「ふむ……皆さんもようやく音の真意が聴こえてきたようだな」と呟く。
その言葉がまた、久我を追い詰めた。
沈黙の中、久我は唇を噛みしめ、ただ一点を見つめていた。
それは、壇上の照明の向こう――
赤いドレスの幻のように浮かぶ、仁子の姿だった。
彼女はこの光景を見ているのか、それとも――
心のどこかで、もう“音”に呑まれているのか。
記者会見は混乱のうちに終わった。
小誤郎は満足げに帽子を被り直し、颯爽と会場を後にする。
黒木警部は頭を抱え、久我は沈黙のまま額に手を当てる。
文子は冷ややかな笑みを浮かべ、誰よりも鋭い目で仁子の姿を思い浮かべていた。
事件の捜査は進展せず、世間には依然として謎と憶測だけが漂う。
“KUGA”の文字は人々の記憶に残り、久我に対する疑念は薄れるどころか増幅していた。
数日後、街には次のリサイタルの噂が広がる。
赤い衣装の仁子が、今度はチェロを奏でる――。
観客たちは恐怖と期待を胸に、ホールへ足を運ぶ準備を整えていた。
赤い照明の下、舞台の中央に立つ彼女の姿が浮かぶ。
外の世界で膠着した捜査とは対照的に、舞台上では音が、旋律が、誰にも止められぬ運命の幕開けを告げようとしていた。
――次のリサイタルで、再び何かが起こる。
観客たちの心に、不安と期待が入り混じる。
明智小誤郎の奇妙な推理もまた、舞台の向こうで音と共鳴するかのように、静かに胸を高鳴らせていた。
赤い衣装、赤い旋律。
すべては次のチェロコンサートへと続く――。
第五話予告・最終話
赤い衣装の小塚仁子が、チェロを手に舞台へ立つ。
静寂のホールに魔曲が響き渡り、恐怖と陶酔が入り混じる。
すべての謎が、ついにこの一夜で明らかになる――。
明智小誤郎の奇妙な推理が、最後に真実を暴く、か?。
登場人物
明智小誤郎:自称探偵。毎回突拍子もない推理で混乱を招くが、偶然真相に辿り着く。
小塚仁子:魔曲の美女。赤い衣装で舞台に立ち、あらゆる楽器を操る。
久我弘道:仁子の元師匠。影のある人物。
杉本修一:音楽雑誌の若手記者。
黒木警部:刑事。小誤郎の奇怪な推理に頭を抱える。
藤村信三:楽器商社長。第一の犠牲者。
矢田俊哉:作曲家。第二の犠牲者。
三浦礼子:ピアニスト。第三の犠牲者。
玉置絵里:仁子の衣装デザイナー。怪しい言動で疑われる。
相馬貞夫:ホール支配人。興行への打撃を恐れて仁子を憎む。
長谷川文子:仁子のライバル。彼女を中傷し続ける
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