『明智小誤郎と魔曲の美女 赤き旋律の惨劇』第5話・最終話
第五話 魔曲の終焉
――その夜、ホールは異様な静けさに包まれていた。
扉が閉ざされるたび、音がひとつ、世界から消えていくようだった。
観客は息をひそめ、誰もが隣の咳払いすら恐れている。
まるで音そのものが、死を呼ぶ呪文になってしまったかのように。
それでも――客席は満員だった。
チケットは発売と同時に完売。
「小塚仁子、最後のリサイタル」と銘打たれたその夜を見届けようと、
人々は黒い喪服のような装いで列をなし、沈黙の行進のようにホールへと入っていった。
ロビーには報道陣が詰めかけ、フラッシュが光るたびに、
壁に掛けられた仁子の肖像が血のような赤に染まって見えた。
誰もが期待と恐怖のあいだに揺れている。
――今夜、また“何か”が起こるのではないか。
ステージには、ひとつの椅子と、一本のチェロ。
照明は落とされ、天井から降る光はまるで墓碑を照らす月光のようだった。
弦がかすかに震えるたび、観客の喉がごくりと鳴る。
黒木警部は腕を組み、久我弘道は目を閉じたまま動かない。
明智小誤郎は、ただひとり落ち着きなく座席を揺らしながら、
「ふむ、この空気……完全に“死の気圧”だな」と意味不明なことを呟いていた。
そして、時計の針が十九時を指す。
舞台袖のカーテンが、ゆっくりと動いた。
――小塚仁子が現れた。
深紅のドレス。
白磁のような肌。
静まり返った空間の中、彼女の歩みだけが音を持っていた。
その一歩ごとに、観客の心拍がかすかにずれる。
まるで彼女が指揮するかのように。
仁子は椅子に腰を下ろし、チェロのネックに手を置いた。
弓を持ち上げる。
誰かが息を呑む。
その瞬間、ホール全体が、まるで深海に沈んだかのように――音を失った。
“最後の演奏”が、始まろうとしていた。
観客席の最前列には、報道陣が並んでいた。
フラッシュは今はもう止み、レンズの奥で誰もが息を潜めている。
――この瞬間を逃すものか。
そんな野心が空気の粒にまで混じっていた。
中央やや後方、黒木警部、明智小誤郎、久我弘道、長谷川文子が座る席のすぐ隣に記者・杉本修一は汗ばむ手でカメラを握りしめていた。
彼の黒い鞄は、足元に無造作に置かれている。
久我弘道は、ただ仁子の姿を見つめていた。
赤いドレスの裾が、ステージの黒い床を舐めるように揺れる。
あの指が、また人の命を弾くのか――
その問いを胸の奥に沈め、彼は拳を強く握った。
隣の席では、ライバルの長谷川文子が微笑を浮かべている。
だがそれは、祝福ではなく期待の笑みだった。
「今度こそ、あの女の終わりを見届ける」
唇の端に、そう書かれているように見えた。
そして、暗がりの中で唯一、明智小誤郎だけが落ち着かない。
「うむ、やはりこの座席配置……音の跳ね返りが不自然だな。犯人はこの反響を利用して――」
黒木警部がうんざりした顔で「静かにしろ」と呟くが、明智はまるで聞いていない。
仁子の弓が、チェロの弦に触れる。
低く、湿った音が空気を震わせた。
それはまるで、これまで死んでいった者たちの呻きのようでもあり、
同時に、祝祭の幕開けの合図のようでもあった。
ホール全体が、張り詰めた弦そのものになったかのように――
誰もが一音たりとも聴き逃すまいと、静まり返った。
――深く、重く、まるで地の底から響くような音。
ホールが震えた。
仁子の指が滑らかに走り、音が幾層にも重なっていく。
人々の胸に、息に、骨に、沈み込むように。
その刹那、明智小誤郎が唐突に立ち上がった。
「見たか! 空気が共振している! 死の波が来るぞ!」
観客がざわめき、黒木が慌てて制止する。
「黙れ! 今立つな!」
「黙るわけにはいかん! この椅子の下に何かを感じる!」
そう言いながら彼は、隣の席の足元に置かれていた黒い鞄に足を引っかけ――
どしゃっ!
派手に転倒した。
椅子が軋み、金属がぶつかる音が響く。観客の悲鳴。
その拍子に、黒い鞄が横倒しになり、中身が飛び出した。
――ぱしゃり。
床に広がる透明な液体。
ライトを受けて、まるで水銀のように鈍く光る。
すぐに鼻を刺すような異臭が立ちこめた。
黒木は思わず咳き込みながら手で鼻を覆う。
「……なんだ、この匂い……」
アルコールとも違う。
ただの洗浄液ではない。
もっと刺激的で、どこか薬品めいた、危険な匂いだった。
明智が床に這いつくばり、「これはホルマリンか!? いや、もしかして……!」と叫んでいる。
黒木は彼を制し、すぐに近くのナプキンで液体を押さえた。
布がみるみるうちに変色し、焦げたような匂いを放つ。
「おい、触るな!」
黒木が叫び、手近にあったハンカチで小瓶を拾い上げる。
その瓶はわずかに濁っていて、中の残り液が光を反射してころがった。
ラベルには、はっきりとこう記されていた。
“Instrument Oil”〔楽器用オイル〕
――ただし、その下に小さく赤字で書かれている。
“Caution: Toxic – Do not inhale”〔注意:有毒 ― 吸い込むな〕
黒木は息を止め、瓶を凝視した。
それはただの楽器のメンテナンス用ではない。
何か、意図的に“毒物”を混ぜられたものだ。
顔を上げると――
そこにいたのは、蒼白な顔の杉本修一だった。
ライトの光を受け、汗の粒が彼の額でぎらりと光る。
「おい……これはお前のカバンから出たぞ」
黒木の低い声が、静まり返ったホールに落ちた。
沈黙。
仁子の弓が止まり、最後の一音がホールの天井に溶けて消える。
客席がざわめく。誰かが椅子をきしませ、別の誰かが息をのむ。
ライトが舞台の上を照らし、明智の転んだままの姿と、
黒木の手にある小瓶――“Instrument Oil”のラベルを照らし出した。
「杉本修一」
黒木が名を呼ぶ。
その声には、怒りよりも確信があった。
杉本は蒼白な顔で立ち上がろうとするが、膝が震えている。
観客の無数の視線が彼に突き刺さる。
まるでホール全体がひとつの巨大な審問の目になったかのようだった。
「……違う、違うんです」
ようやく漏れた声は、擦れた笛の音のように細かった。
「僕はただ……ほんの少し、誰かに嗅がせるだけのつもりで……」
「誰にだ?」
黒木の声が鋭く響く。
その一言で、空気がまた固まる。
スポットライトがわずかに動き、久我弘道の顔を照らし、
次に、長谷川文子の頬をかすめた。
久我は目を細め、長谷川は唇の端を歪める。
「まさか……私に?」と呟く。
杉本の視線が泳ぐ。
まるで逃げ場を求めるように、客席を見回し、
やがて自嘲するように笑い出した。
「僕は――仁子さんの演奏中に眠るのが、好きだったんです」
ざわっ。
ホール全体が一瞬、意味を掴み損ねたようにざわめいた。
「眠る?」
「今なんて言った?」
杉本は続ける。
「静かで……美しくて……まるで夢の中みたいで。
でも、毎回、誰かが咳をしたり、拍手したり、椅子を軋ませたり……全然眠れなかった!」
黒木は額に手を当てた。
「……まさか、それで……?」
杉本は頷いた。
もう逃げる様子もなく、真剣そのものの眼差しで言い切った。
「だから、今夜こそ――静かにしてもらおうと思ったんです。
少しだけ、静寂を。ほんの少しだけ……」
黒木が低く問う。
「藤村、矢田、三浦――お前がやったのか?」
沈黙。
そして、杉本の唇がかすかに震えた。
「……ええ。そうですよ。最初は、ほんの冗談みたいなものだったんです」
彼は遠くのステージを見つめながら、淡々と語り出す。
「藤村のときは……あの男、開演中にずっと飴を舐めるクセがあるんだ。いつもクチャクチャ、うるさくて。
だから、楽屋に置いてあった飴の入れ物に、ちょっとだけ……混ぜたんです。
静かにしてもらおうと思って。」
会場が息を呑む。
杉本は笑いも涙もない声で続けた。
「矢田は、作曲家のくせに、いつも演奏が終わるたびに“ブラボー!”って叫ぶんですよ。
あれがまた、耳障りでね。
だから、フルートに興味があるふりをして、管の中に仕込んだんです。小さな刃を。」
黒木が眉をひそめる。
「……三浦礼子は?」
杉本は静かに目を伏せた。
「三浦さんは……いつも、譜めくりのたびに紙を擦る音がして。
演奏の一番いいところで、カサッ、カサッと。
だから、譜面に少しだけ薬を塗ったんです。
まさか、倒れるなんて思ってなかった。
ほんの……静けさを、守りたかっただけなんです」
その言葉に、会場の空気が凍りついた。
小誤郎が「ふむ……なるほど、完璧な静寂の演出だな」と頷いた瞬間、黒木が額を押さえた。
「お前な……それを“音楽への敬意”だとでも言うのか?」
杉本はきっぱりと答えた。
「ええ。音楽は、音と同じくらい“静けさ”が大事なんです」
ホールの奥で、誰かが椅子を軋ませた。
その音に、杉本が一瞬だけ眉をひそめた。
――その姿は、まるで“静寂に憑かれた狂人”のようだった。
ホールの空気が崩壊した。
誰もが信じられないものを見るように口を開け、
黒木は言葉を失ったまま瓶を見つめる。
そして、明智小誤郎がゆっくりと立ち上がった。
「ふん、やはりな。音楽の本質は“沈黙”にある……! 私の推理どおりだ!」
黒木が振り向き、怒鳴る。
「どこがどう“推理どおり”だ!」
その瞬間、会場の空気が凍った。
黒木が無言で手を上げる。
警官が駆け寄り、杉本の両腕を押さえる。
「連行しろ。今すぐだ」
杉本は抵抗しなかった。
ただ、連れ出されながら何度もつぶやいた。
「静かに……静かに聴きたかっただけなんだ……」
――その声すら、ホールの静寂に吸い込まれていった。
明智小誤郎は、自分の転倒した跡を見下ろしながら胸を張った。
「ふむ、やはり私の“音波理論”が真実を暴いたようだな」
黒木がげんなりと返す。
「お前の尻が証拠を暴いたんだろうが」
「いや、尻も探偵の一部だ。体全体で真実を感じ取るのが、私の流儀だ」
黒木は顔を覆った。
久我は苦笑し、仁子はただ、チェロを見つめていた。
ホールに残ったのは、異様な静けさだった。
誰もが帰ることを忘れ、舞台の上の仁子を見つめていた。
彼女は赤いドレスの裾を整え、ゆっくりと立ち上がる。
「……音楽は、止まらないわ」
そう言って、再び弓を構えた。
低く、深く、魂を沈めるようなチェロの音が響く。
それは祈りにも似て、死者たちの鎮魂歌のようでもあった。
誰もが恐れていた――「また死が訪れるのでは」と。
だが、その音はただ、美しかった。
妖艶な旋律がホールを包み込み、
やがて、静寂が訪れる。
明智小誤郎が腕を組み、満足げに呟いた。
「ふむ、やはり芸術と犯罪は紙一重だな」
黒木が深くため息をつく。
「……お前と静寂もな」
そのとき、赤い光が舞台を照らす。
仁子のドレスが揺れ、最後の音が天井を震わせた。
――幕は、静かに降りた。
エピローグ
《文化欄》
「魔曲の美女、最後のリサイタル――事件の顛末とその余韻」
昨夜、都内某ホールにて、小塚仁子氏による「赤き旋律のリサイタル」が行われた。
同演奏会では、連続して起きた不可解な死の事件の最終章として、関係者の注目を集めていた。
事件の発端は数週間前、藤村信三氏、矢田俊哉氏、三浦礼子氏の相次ぐ死であった。
これにより、仁子氏の演奏会は“呪われた音楽会”として世間の耳目を集めることとなった。
最終演奏の最中、観客席で倒れる者が発生。
小瓶に入った有毒オイルがばらまかれるという偶然の事故も重なり、騒然とした状況となった。
警察の調査により、真犯人は音楽雑誌記者・杉本修一氏であることが判明した。
杉本氏の動機は、あまりにも意外かつ単純であった。
「仁子氏の演奏中に眠ることが好きだった。だが観客の咳や拍手で眠れなかったので、静かにするために……少しだけ仕掛けた」というものである。
その幼稚さに、現場の黒木警部も呆れたという。
一方、仁子氏は事件後も変わらぬ美貌と技巧を見せ、赤い衣装で舞台に立ち、観客を魅了した。
演奏は静かに、しかし強烈な余韻を残し、死と芸術の境界を感じさせるものだった。
自称探偵・明智小誤郎氏は、今回も奇矯な推理で騒動を巻き起こしたが、最終的には偶然にも真相に到達。
観客の間では、「また彼女の演奏会に死が訪れるのでは」と囁かれたという。
そして、ホールの静寂を破ったのは、明智氏の突拍子もない決め台詞だった。
「ふん、やはり音楽と推理は紙一重! ……いや、紙だけじゃないな、マジックペンでも書けるくらい、偶然と勘が交錯しているのだ!」
ホールには、微かな笑いと同時に、唖然とした沈黙が広がった。
黒木警部は天を仰ぎ、久我弘道も思わず眉をひそめた。
長谷川文子は口元を押さえ、観客は肩を震わせる。
だが誰もが、仁子の奏でる赤き旋律の荘厳さには息を飲んだままだった。
音楽と死、偶然と推理――
すべてが混ざり合った最後の夜。
赤い衣装の美女は、静かに、しかし確実に、人々の記憶に深く刻まれたのだった。
そして記事の末尾には、ある小さな光景が添えられていた。
観客席の隅で、明智小誤郎が得意げに胸を張り、にやりと笑う姿である。
「ふむ、偶然と推理の芸術、両方とも完璧に演出できたな……」
その顔に、読者は思わず苦笑いを禁じ得なかったという。
明智小誤郎シリーズ
『明智小誤郎と魔曲の美女 赤き旋律の惨劇』
――完
登場人物
明智小誤郎:自称探偵。毎回突拍子もない推理で混乱を招くが、偶然真相に辿り着く。
小塚仁子:魔曲の美女。赤い衣装で舞台に立ち、あらゆる楽器を操る。
久我弘道:仁子の元師匠。影のある人物。
杉本修一:音楽雑誌の若手記者。
黒木警部:刑事。小誤郎の奇怪な推理に頭を抱える。
藤村信三:楽器商社長。第一の犠牲者。
矢田俊哉:作曲家。第二の犠牲者。
三浦礼子:ピアニスト。第三の犠牲者。
玉置絵里:仁子の衣装デザイナー。怪しい言動で疑われる。
相馬貞夫:ホール支配人。興行への打撃を恐れて仁子を憎む。
長谷川文子:仁子のライバル。彼女を中傷し続ける
次回予告
田所トメ子の事件簿:完走できなかった英雄
夏の海。完璧な英雄が立つ水面に、静かな異変。
自転車、ラン、完走のはずが――
誰も気づかない小さな違和感が、連鎖を始める。
完走できなかった英雄。その死の真相に、田所トメ子が迫る。
11月17日頃公開予定、
お楽しみに―――――
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