『鵺ノ夢――金田一ポン助霊怪事件帖』第弐章

 


『鵺ノ――金田一ポン助霊怪事件帖』

 夢と現の狭間に揺れる鵺のささやき


章 鵺の哭く夜

夜が来た。
山霧が寺を包み、月の輪郭さえも曖昧にしている。
灯籠の明かりは滲み、廊下を這うように影が動く。

――コツ、コツ。

誰もいないはずの廊下で、足音が響いた。
音はゆっくりと近づき、柱の陰で消える。
猫が耳を立て、ふっと毛を逆立てた。

……動物霊の夜勤ですよ。」
金田一ポン助は、湯呑みを片手に呟いた。
相変わらず飄々とした口調で、まるでこの異様な夜も
どこかの芝居を観ているかのようだ。

彼の足元では、猫がじっと一点を見つめている。
その先には、黒い影が一瞬、床の上を滑った。

「律道、見たかい?」
……うん、。」
低く、怯えた声。律道が襖の隙間から覗き込んでいる。
「鵺だよ。僕、確かに――黒い顔で、鳥みたいな声を……!」

「ははっ、またそんなこと言って!」
背後から沙門が現れ、律道の肩を叩いた。
「見間違いだって。あんなの、夜霧のイタズラだよ。」

二人の僧の顔は、灯明に照らされて揺れている。
沙門はいつも通り明るい笑顔を浮かべ、
律道は青ざめたまま、笑い返そうとしてうまく笑えなかった。

「笑ってる方が、怖くないですからね。」
ポン助が軽く茶をすすった。
「でもまぁ、動物霊にしては上等な演出ですよ。」

沙門が「演出?」と笑い返すが、
その笑いも、霧に吸い込まれるようにかすれて消えた。

霧の中で、何かが確かに笑った気がした。


■ 夢の中の声

その夜、夕子は夢を見た。
深い霧が、音もなく山を這っている。
月も星も沈み、空と地の境さえ見えない。
ただ、白く濁った世界の真ん中に――鐘楼が立っていた。

風はなく、鐘は鳴らない。
けれど、鐘楼の下にひとりの影が立っている。
袈裟の裾を濡らし、振り返ったその顔。

…………?」

あの日、川に流されたまま帰らなかった、弟。
十七の夏のまま、微笑んでいる。

「姉さん、……封印を、解いて……

声は確かに湊の声だった。
けれど、それは同時に幾つもの声でもあった。
男の声、女の声、子どもの泣き声――
それらが折り重なり、やがて一つの響きとなって彼女を包み込む。

笑いとも、嘆きともつかぬ音。
その音が、霧の中の鐘楼を震わせ、
彼女の耳の奥にゆっくりと染みていく。

――封印を、解いて。

ひときわ強く声が重なった瞬間、
霧が裂け、無数の蛇が鐘楼の上から落ちてくる。
鱗のきらめきが月光のように散り、
そのうねりが彼女の腕に巻きついた。

「湊……!」

叫んで目を覚ました。
息が詰まり、胸が波打つ。

部屋の灯明がかすかに揺れている。
掌に冷たい感触――
見ると、蛇の抜け殻が指に絡みついていた。

夢の続きのように、窓の外では霧が流れている。
鐘楼の影がぼんやりと揺れ、
その向こうから、微かな鳴き声がした。

――ヒョウ……ヒョウ……

それは夜の底から聞こえてくるようで、
どこか、湊が笑っているようにも思えた。


■ 岡崎妙蓮の訪れ

翌朝、空は薄墨色に曇っていた。
山の端を這う霧がまだ晴れきらず、
鐘楼の屋根だけがぼんやりと浮かび上がっている。

縁側に、ひとりの女が立っていた。
灰色の和装に黒縁の眼鏡。
背筋の通った姿勢と、どこか人を寄せつけぬ静けさ。
風が吹くと、袖口から白い指がのぞいた。

……金田一ポン助さん、でしたか。」

声は低く、よく通る。
ポン助は柱にもたれ、朝茶をすする手を止めた。

「ええ、ええ、治田笑男――いえ、金田一ポン助です。」
にこりと笑い、わざとらしく言い直す。
その笑い方があまりに自然で、
まるで訂正するために生きている男のようだった。

女は小さく息を吐き、微かに口元を緩めた。
……なるほど。やはり、風変わりな方のようですね。」

「よく言われます。風変わりも風通しが良いもので。」
ポン助は湯呑みを置き、猫の頭を軽く撫でる。
猫は尻尾をゆらりと動かし、女の足元を通り過ぎた。

「あなたも、この騒ぎを調べに?」
「ええ。」
――岡崎妙蓮は、胸の前で両手を重ね、
霧の向こうの鐘楼を一瞥した。
「私は民俗学者です。この天鳴寺には古い鵺伝承が残っていると聞きまして。」

「民俗学ですか。それは霊の親戚みたいなもんですね。」
「霊ではなく、記録です。」
妙蓮の声は澄んでいて、どこか冷たい。
「けれど……この寺には、記録できない何かがあるように思えます。」

ポン助は目を細めた。
「霊が呼ぶものでね。」

妙蓮は一瞬、言葉を失ったようにポン助を見つめ、
やがて懐から古びた帳面を取り出した。
頁には墨の滲んだ文字が並び、
その一行に、深い筆跡でこう記されていた。

『鵺(ぬえ)とは、混ざる魂。
 愛し合う者、罪深き者、赦しを得ぬ者の心が結ばれて生まれる。』

しばし沈黙。
縁側の風鈴が、ひとつ鳴った。

……混ざる、ですか。」
ポン助は茶を一口。
「料理みたいですね。」

妙蓮の眉がかすかに動く。
「笑い事ではありません。」

「笑ってるわけじゃないんです。
 人の心が混ざるっていうのは、案外うらやましいことですよ。」

妙蓮は何かを言いかけてやめ、
視線を庭の向こうへ向けた。
霧の中で、どこか遠くの鐘が微かに鳴った気がした。

「この寺では古くから、魂の融合を封じる儀式が行われていたらしいのです。」
「封じる、ということは……もう混ざってしまった後、ということですかねぇ。」

ポン助の声は軽いが、
その目は笑っていなかった。
霧の向こうを見つめるその表情に、
妙蓮は一瞬、ぞくりとしたものを感じた。

その時、鐘楼の方から、風に乗って聞こえた。
――ヒョウ……ヒョウ……

猫が毛を逆立てた。
妙蓮は顔を上げ、ポン助の横顔を見た。
彼は静かに呟いた。

「さて……どこから現実で、どこまでが夢でしょうね。」


■ 疑心の夜

日が沈むと、寺は再び霧に沈んだ。
僧たちは口を閉ざし、誰も夜の鐘を鳴らそうとしない。
「誰かが封印を壊した」との噂が、
囁くたびに人の顔を疑いの色に変えていく。

沙門は部屋に籠り、律道は姿を見せなかった。
木島刑事が警察の懐中電灯を灯して境内を巡る。
その光が霧を切り裂くたび、
木々の影が人の形に歪んでは消える。

ポン助は、灯の消えた座禅堂で静かに座っていた。
「声が混ざってきましたねぇ。」
猫が膝の上で眠り、
遠くで、誰かが笑いながら泣いているような声がした。

「鵺とは……
妙蓮の言葉が、夢のように響く。
「混ざる魂。」

ポン助は小さく呟いた。
「じゃあ、混ざったまま成仏できない魂は、
夜な夜な哭くしかないんでしょうねぇ。」

その瞬間、鐘楼の奥から低く鳴った。
――ヒョウ……ヒョウ……

音はまるで、誰かの嗚咽にも似ていた。


夜明け前――
寺はまだ眠っていた。
灯籠の火は尽き、霧が白い帳のように境内を覆っている。
空も地も、まるで一枚の紙の裏表のように曖昧だった。

金田一ポン助は、廊下に腰を下ろしたまま、
湯呑みを手にした姿勢でうとうとしていた。
猫が足元で丸くなり、夢の中で何かを追っている。

――そのとき。

霧の向こうから、かすかな声がした。
最初は風の音のようだった。
だが、確かに誰かが名を呼んでいる。

……ポン助……

耳の奥に直接触れるような声。
遠くからなのに、やけに近い。
霧の粒が肌をなぞり、冷たく震えた。

「封印を……

その瞬間、世界が一度、音を失った。
風も、虫の声も、猫の寝息さえも止む。

ポン助はゆっくりと顔を上げた。
霧の中に、誰かが立っていた。
人の形をしているが、輪郭が曖昧で、
顔は鳥のようにも、獣のようにも見える。

……湊?」

自分の声が、まるで他人の声のように響いた。
影は何も答えず、ただ笑った――ように見えた。
その笑みが霧に滲み、
白一色の世界の中で、金田一ポン助の意識は静かに溶けていった。

次に目を開けたとき、夜はすでに明けていた。
霧は晴れ、猫が彼の膝の上で丸くなっている。
湯呑みは倒れ、茶がこぼれて床板を染めていた。

ポン助は額に手を当て、苦笑した。
……寝てたんですかねぇ。夢見がよくて。」

けれど、袖の先には――
乾いた蛇の抜け殻が、ひとひら、貼りついていた。

 

 

章予告

夜が明けても、霧は晴れなかった。
天鳴寺のあちこちで、笑い声と泣き声が入り混じるような奇妙な音が聞こえるという。
木島刑事が調べを進める中、
死者がかつて「鵺塚の発掘」に関わっていたという事実が浮かび上がる。
そして、若い僧のひとりが忽然と姿を消した――

夢と現が溶け合う寺で、
金田一ポン助は再び混ざり合う魂の気配を嗅ぎ取る。

 

 

 

【登場人物】

金田一ポン助(治田笑男)
自称・名探偵にして霊媒師。飄々としていて掴みどころがない。
本人は「幽霊はいますけど、だいたい寝ぼけてるんですよ」と言う。
推理よりも感じるタイプで、時に核心をぼそりとつぶやく。

水無瀬夕子
天鳴寺の尼僧。理性的で信仰心が強いが、弟の死の記憶に囚われている。
鵺の声に「湊の呼ぶ声」を感じる。

蓮台院(れんだいいん)
天鳴寺の住職。温厚に見えるが、封印の術を継ぐ秘密を持つ。
鵺伝説を信仰の核としてきた人物。

木島刑事
現実主義者の刑事。超常を否定しながらも、次第に恐怖に呑まれる。
最後には見てしまう

沙門(しゃもん)・律道(りつどう)
若い修行僧。いつも一緒に行動し、兄弟のように仲が良い。

円正(えんしょう)
天鳴寺の古参僧。保守的で新参者を嫌う。

岡崎妙蓮(おかざき・みょうれん)
女性民俗学者。鵺伝説を研究するため寺に滞在している。
冷静な観察者のようで、実はポン助を試している節も。



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