『鵺ノ夢――金田一ポン助霊怪事件帖』第参章

 


『鵺ノ――金田一ポン助霊怪事件帖』

 夢と現の狭間に揺れる鵺のささやき


章 幻と現のあわい

霧は、その日も晴れなかった。
夜明けの鐘が鳴っても、山の中腹は白く沈み、
寺の屋根がまるで湖の底に沈んだようにぼやけて見える。

金田一ポン助は、縁側に腰を下ろして湯気の消えた茶をすすっていた。
猫はその膝の上で眠り、どこか夢の続きを見ているようだった。

……霧が、濃いですね。」

声をかけたのは夕子だった。
彼女の顔色は冴えず、昨夜からほとんど眠っていないように見えた。
「鐘の音も、途中で途切れました。まるで……何かが息をしているみたいに。」

ポン助は、ぼんやりと霧を見つめたまま呟く。
「ええ、霧ってのはね、人の記憶に似てます。
 晴れたと思っても、また立ちのぼる。」

その時、足音が近づいた。
「おや、現実側の人が来ましたね。」

境内に現れたのは木島刑事だった。
革靴を泥で汚し、帽子を取る手もどこか重い。

「また来たんですか、刑事さん。」
またとは失礼だな。捜査中だ。」
木島は渋い顔で答えた。
「死んだ僧――円正。過去に鵺塚の発掘計画に関わっていたらしい。」

「鵺塚……?」
夕子が息を呑んだ。

木島は手帳を開き、指で古びた紙をなぞる。
「二十年前、この寺の裏山で小さな発掘調査が行われた。
 古い塚を掘り返したが、見つかったのは奇妙な石棺だけだったそうだ。
 円正はその現場に同行していたらしい。」

「石棺?」
ポン助は首をかしげ、茶をひと口すする。
「誰か、出たんですか? 中から。」

……冗談はやめろ。」
木島の声には怒りよりも、かすかな震えが混じっていた。
「発掘のあと、参加者のうち三人が次々と亡くなっている。
 報告書は途中で破棄され、記録も残っていない。」

「へぇ。」
ポン助は相づちを打ちながら、どこか遠い目をしていた。
「その石棺、今もあるんですか?」

「寺の裏の倉に保管されているらしい。だが――

木島が言い終える前に、突然、鐘が鳴った。
重く、濁った音。
山の霧が震えるように揺れ、猫が耳を立てた。

夕子が顔を上げる。
……鐘を鳴らしたのは?」

だが、誰も鐘楼にはいなかった。
霧の中から響く鐘の音が、いつまでも消えずに続いていた。


その夜。

沙門と律道の二人は、修行僧の部屋で向かい合って座っていた。
灯明の火がゆらめき、畳に影が二つ重なる。

「律道。……最近、夢を見るん。」
沙門の声は小さく、どこか怯えていた。
「白い霧の中で、誰かが笑ってる。
 顔は見えないけど、すごく……懐かしい気がして。」

律道は黙って聞いていたが、やがてぽつりと答えた。
もだ。 誰かが耳元で、同じことを言う。
 封印を解けって。」

二人は顔を見合わせた。
しばしの沈黙。
遠くでまた、鵺の鳴き声が響いた。

――ヒョウ……ヒョウ……

沙門は肩を震わせ、笑うように呟いた。
「ねぇ律道。俺たち、ほんとに現実にいるのかな。」

律道は答えなかった。
ただ、彼の手がわずかに沙門の袖を掴んだ。


夜は深く、霧はさらに濃くなっていた。
廊下の灯は早くに落とされ、寺全体が水底のような静けさに沈んでいる。

沙門は眠れず、灯明の火を見つめていた。
揺らめく炎が、律道の笑顔に見える。
夕刻、ほんのささいなことで口論したのだ。
「怖がりすぎだ」と笑った律道の声が、まだ耳の奥に残っている。

「律道……?」
返事はない。

「律道...?」もう一度読んでみる、だが返事はない。何故か高鳴る胸の鼓動を感じながら沙門は隣りの律道の部屋に通じる襖に手をかけた。

隣の部屋の襖を開けると、布団は乱れたまま、温もりだけが残っていた。

その瞬間、遠くの鐘楼が――ひとつ、鈍く鳴った。
誰も触れていないはずの鐘が、霧の中で震え、
どこからともなく「ヒョウ……ヒョウ……」と低い声が重なった。

沙門は息をのむ。
足が勝手に動いた。
灯明を手に、廊下を抜け、境内へ。

霧の向こうで、何かが彼を呼んでいた。
あの声に似ていた――律道の。

――おいでよ
――ここだ

足元で草が濡れ、冷たい露が袈裟を重くする。
石段を下るたび、音が吸い込まれていく。
寺の裏へ、さらに奥へ。

そして、闇の底に、それはあった。

白い霧の裂け目。
古い塚の前に、ひとつの人影。

……律道?」

声が震えた。
霧の中で、誰かがゆっくりとこちらを振り向く。
だがその顔は、輪郭が崩れ、
まるで人と獣の境を漂っているようだった。

炎がぱちりと音を立て、灯明が消える。
霧の底で、何かが笑った。

――それから、音が途絶えた。


◆ 騒ぎの朝

朝靄の中、寺の鐘が鳴るより早く、
境内を駆ける僧の声が響いた。

「沙門殿が! 沙門殿が――!」

僧たちが雪崩のように裏山へ走る。
その先、鵺塚の前で、彼は見つかった。

膝を折り、微笑を浮かべたまま。
まるで穏やかな祈りの最中に、
そのまま時を止めたかのようだった。

「息をしていない……
「律道は? 律道の姿はどこだ……?」

ざわめきとともに、恐怖が伝染していく。
誰もが声を潜めながら、口の端で囁いた。
――鵺が出たのだ、と。

やがて、寺の門前に車の音が響く。
木島刑事が駆けつけた。
霧の中から現れたその顔は険しく、
しかし現実を拒むような沈黙をまとっていた。

……また、笑っているのか。」

刑事の視線の先、
沙門の頬には確かに笑みが残っていた。
その足元、湿った土に刻まれた跡を見て、
木島は言葉を失う。

人の足跡。しかし、片方だけ深く沈み、
まるで引きずられるように森の奥へと続いている。
その跡の先には、黒ずんだ布切れがひとひら、
僧衣の袖のように風に揺れていた。

……律道のもの、か。」
木島は手袋越しに拾い上げ、眉を寄せた。
冷たい朝の空気の中、鳥の声も聞こえない。

そのとき、微かな音がした。
「ヒョウ……ヒョウ……
遠く、森の奥。
それは風ではなく、確かに何かの声だった。

木島が顔を上げた瞬間、
隣で立っていた金田一ポン助が小さく首を傾げた。
「刑事さん。」
……なんだ。」
「今の声、聞こえました?」
「風の音だろう。」
「ええ、そうですね。」
ポン助は、にやりと笑う。
「風も魂も、よく似た声をしてますから。」

霧がまたひとつ流れ、
塚の上に積もる枯葉を優しく撫でた。
その下から、かすかに白い紙の切れ端が覗く――
古い経文の断片。
墨の文字が滲み、ひとつの言葉だけが読み取れた。

「封」

木島はその一文字を見つめ、
知らぬ間に息を呑んでいた。


「律道の行方は?」
木島刑事が低く問いかけた。
僧たちは互いに顔を見合わせ、誰も答えない。
霧の中、鐘の余韻だけが漂っている。

僧たちが鵺塚の前でざわめく中、
住職・蓮台院が静かに歩み出した。
白髪交じりの髪を後ろにまとめ、袈裟を整えながら、霧に包まれた境内を踏む。

「沙門殿か……
低く重い声。怒りではなく、長く耐えた悲しみが滲む。
足元の沙門の遺体を見下ろすと、蓮台院は深く息を吐いた。

「律道殿の姿は……まだか。」
僧の一人が震える声で答える。
「夜中にはまだ部屋にいましたが……朝になったら、いなくなっていました。」

木島刑事は眉を寄せ、腕を組む。
……なるほど、律道が何か知っているか、あるいは関わった可能性があるわけか。」

夕子が声を震わせる。
「でも、律道さんが沙門さんを……
 二人は、本当の兄弟のように――

「兄弟だからこそ、だ。」
木島の声は冷たかった。
「感情のもつれ、恨み、あるいは嫉妬……動機はいくらでもある。」

僧たちは息を潜め、互いに顔を見合わせた。
蓮台院は沈黙のまま、鵺塚の奥、封印の祠の方に目をやり、ゆっくりと口を開いた。
「この寺には、眠るべきものがある。人の魂を守り、封じるためのものだ。
 しかし、封じた者の心が乱れれば、魂は、こうして戻る。」

その言葉は、木島の現実的疑念に直接答えるものではないが、
場の空気に異質な重みを与え、僧たちの恐怖をさらに深めた。

ポン助は沙門の魂の抜けた体に見ながら猫を抱きかかえ、小さく笑う。
「人か、鵺か……どっちが犯人でも、あんまり気分のいい事件じゃありませんねぇ。」

木島刑事は苛立ったように振り向いた。
「あんた、他人事みたいに言うな!」

ポン助はゆっくりと空を見上げ、霧の向こうで滲む太陽を眺めた。
「ええ、そう見えるかもしれませんけどね。」
指で猫の喉をなでながら、ぽつりと呟く。
「でも、この笑顔は――人の仕業には見えません。」

蓮台院もまた、沙門の微笑を見つめ、静かに頷いた。
「魂が、帰るべき場所を求めているだけだ……

その言葉が、朝靄の中に静かに溶けていった。

 

夜。
座禅堂の中、金田一ポン助はひとり座っていた。
灯明がゆらぎ、風が障子を震わせる。
猫が隣で小さく丸くなっている。

……あの二人、似てましたね。」
ポン助は独り言のように呟く。
「鏡みたいに。
 片方がいなくなると、もう片方の姿も消えちゃう。
 まるで……混ざるのを待ってたみたいだ。」

彼の声が、霧に溶けていく。
そして、再び遠くから鳴き声が聞こえた。

――ヒョウ……ヒョウ……

それは風か、魂の声か。
誰にも分からなかった。

 

【第章への予告】

夜が来る。
風は止み、鐘の音だけが寺に響く。
封じられた札がひとつ、またひとつと剥がれ落ち、
天鳴寺はゆっくりと夢の中へ沈んでいく。

笑い声と泣き声が混ざり合い、
鵺が、ついに目を覚ます。



【登場人物】

金田一ポン助(治田笑男)
自称・名探偵にして霊媒師。飄々としていて掴みどころがない。
本人は「幽霊はいますけど、だいたい寝ぼけてるんですよ」と言う。
推理よりも感じるタイプで、時に核心をぼそりとつぶやく。

水無瀬夕子
天鳴寺の尼僧。理性的で信仰心が強いが、弟の死の記憶に囚われている。
鵺の声に「湊の呼ぶ声」を感じる。

蓮台院(れんだいいん)
天鳴寺の住職。温厚に見えるが、封印の術を継ぐ秘密を持つ。
鵺伝説を信仰の核としてきた人物。

木島刑事
現実主義者の刑事。超常を否定しながらも、次第に恐怖に呑まれる。
最後には見てしまう

沙門(しゃもん)・律道(りつどう)
若い修行僧。いつも一緒に行動し、兄弟のように仲が良い。

円正(えんしょう)
天鳴寺の古参僧。保守的で新参者を嫌う。

岡崎妙蓮(おかざき・みょうれん)
女性民俗学者。鵺伝説を研究するため寺に滞在している。
冷静な観察者のようで、実はポン助を試している節も。

 


にほんブログ村 小説ブログ ミステリー・推理小説へ
にほんブログ村

コメント