『鵺ノ夢――金田一ポン助霊怪事件帖』第肆章

 


『鵺ノ――金田一ポン助霊怪事件帖』

 夢と現の狭間に揺れる鵺のささやき


第肆章 封印の破れる夜

夜が、再び山を覆った。
昼から晴れぬ霧は、まるで意思を持つ生き物のように寺を包み、
瓦の一枚一枚、石段の隙間にまで白く染み込んでいく。

風がやんだ。
木々は息を潜め、竹林の葉先が一本も揺れない。
それなのに、耳の奥でざわめきが聞こえる。
遠くのはずの梵鐘の音、虫の声、誰かのささやき。
それらがすべて、同じひとつの音に溶け合っていく。

――夜が呼吸している。

そう思った瞬間、境内の灯籠がわずかに脈打った。
火が生き物のようにうねり、形を変え、
やがてその炎は、上ではなくへと落ちていく。
重力が逆になったようだった。

そのとき、鐘楼の風鈴が鳴った。
けれど、それは風の音ではなかった。

「ヒョウ……ヒョウ……
誰かの声。
遠くでもなく、近くでもなく、
耳のすぐ裏側――夢の中の声のように聞こえた。

廊下の柱に貼られた封印札が、ひとりでに震え始めた。
一枚、また一枚。
紙が空気の中に浮かび上がり、淡い光を放ちながら剥がれ落ちる。
それが畳に触れる前に、すっと溶けて消えた。

木の床が柔らかく波打つ。
影が床を這い、壁を伝い、天井に昇っていく。
上下が反転し、遠近が失われる。
仏間の蝋燭が、鏡の中のように逆さに燃えている。

霧は境内のあらゆる境界を侵し、
軒と空、石と雲、樹木と人影の区別が溶け出した。
寺の屋根が空に浮かび、
空の雲が地面の上を流れていく。

どこまでが夢で、どこからが現実なのか。
その区別を、誰もつけることができなかった。

――天鳴寺は、静かに夢の領域へと沈みはじめていた。


「住職様! お目を開けてください!」

夕子の声が、僧房の古びた柱に反響して消えた。
霧は窓の隙間から入り込み、室内の灯を淡く霞ませている。
畳の上には、蓮台院が仰向けに横たわっていた。
老僧の胸がゆっくりと上下している。
呼吸はある。だが、命の火がどこか遠くで小さく灯っているようだった。

瞼は固く閉じられ、唇がかすかに動いている。
その声は掠れて、まるで古い経の残響のように微かだ。

――だが、聞こえる声はひとつではなかった。

老僧の声に、子供の囁きが混じり、
次に、女の泣き声、
さらに若い僧の低い息遣いが重なっていく。

声は互いに溶け合い、部屋の隅々で反響した。
それは経文でも祈りでもなく、
まるで、封じられた者たちが一斉に目を覚ます音のようだった。

「封印が……破れた……

その言葉を最後に、蓮台院の体がぴくりと震え、
静寂の中へ沈んだ。

夕子は思わず息を呑み、
震える手で住職の袈裟の襟を掴んだ。
その布は冷たく湿っていて、まるで霧そのもののようだった。

「住職様! 湊は……弟は、鵺に……?」

返事はない。
ただ、老僧の胸の上で、線香の煙がゆらゆらと逆流する。
灰が上に落ち、火の粉が天井へ昇っていく。
その異様な光景に、夕子は思わず息を止めた。

次の瞬間――

室内の灯がふっと消えた。
音もなく、炎が吸い取られるように消えたのだ。
闇。
障子の向こうで、風鈴が微かに鳴った。

すう、と音を立てて、背後の障子が開く。

冷たい風が流れ込み、霧が足元にまとわりつく。
その中に、ひとつの人影が立っていた。

白い衣をまとい、細い腕、細い首、そして――顔。
夕子は息を呑んだ。
その輪郭、その背の高さ。
忘れるはずのない、あの姿。

……湊?」

声が震えた。
影はゆっくりと首を傾げる。
その仕草は、かつて弟が照れたときに見せたものと同じだった。

霧が揺れ、灯の残光がその顔を淡く照らした。
微笑んでいた。
だが、その笑みはどこか歪で、
その目の奥に、いくつもの他人の視線が潜んでいた。

男の眼差し、女の涙、老僧の祈り――
誰かの人生が幾重にも重なったような、
混ざり合った表情。

夕子は一歩、足を踏み出した。
足裏が畳に沈む。
冷たく、柔らかい感触。
それが畳ではなく、霧そのものだと気づくのに、時間がかかった。

「湊……戻ってきたのね……?」

影は微笑んだまま、口を開いた。
しかし、声はなかった。
代わりに、背後の空気がざわめき、
部屋中の影がいっせいに壁を這い上がった。

その瞬間、影がふっと揺らぎ、
霧の中に溶けていった。
まるで、水に落ちた墨が広がるように。

夕子の前に残ったのは、
ほんのりとした温もりと、
かすかに漂う、湊の匂いだけだった。

彼女の目から、ひと筋の涙が零れた。
それが畳に落ちたとき、
どこからか小さく笑う声が聞こえた。

――もう、封じることはできない。」

その声は、誰のものでもなかった。

白い霧の向こうに、人の影。
細い腕、細い首、顔の輪郭――
……湊?」
夕子が一歩踏み出す。
影が首を傾げ、微笑んだ。
笑顔のまま、霧の中に溶けていった。


霧の中に消えた影を追って、
夕子はほとんど無意識のまま庭へ出ていた。

草の露が足袋を濡らす。
夜気は重く、呼吸をするたびに胸の奥まで冷たい。
灯籠の火が赤く滲み、
その明かりの中を何かがゆっくりと横切った。

――湊。

その名を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
喉が凍りついたようだった。
影は鐘楼の方へ進んでいく。
歩くたびに、足元から波紋のような光が広がり、
地面が水面のようにゆらめいた。

「待って…………!」

ようやく声が出たとき、
その影は鐘楼の下に立ち止まった。
霧の中で、ゆっくりとこちらを振り返る。
その目は、かつての弟と同じ優しい色をしていた。

けれど、その笑みの奥に、
いくつもの表情が重なっている。
男、女、子供、老人――誰の顔でもあり、誰の顔でもない。
湊の姿が淡く揺れ、
次の瞬間には、幾つもの声が重なって響いた。

――もう、ひとりにはしない。」

風が吹いた。
霧が渦を巻き、影が霧の奥へ吸い込まれる。
夕子は追いかけた。
足元の石畳がいつの間にか柔らかく、
そのまま彼女の足を飲み込んでいく。

気づけば、彼女は寺の裏手――鵺塚の前に立っていた。
灯明もないのに、祠の中がぼんやりと光を放っている。
その光の中心に、湊の姿があった。

「姉さん……僕、ここにいるよ。」
……湊、おまえ
「ずっと待ってた。封印が解ければ、また一緒に――

その瞬間、祠の光が弾けた。
夕子の体は見えない力に押し戻され、
背中から地に倒れ込んだ。

耳の奥で、無数の囁きが渦巻く。
「混ざる……」「離れない……」「愛してる……」「罪だ……
それは湊の声でもあり、沙門と律道の声でもあった。

「封印の実験……魂が……混ざって……
誰かがそう呟いた気がした。

 

ポン助は、そのとき鐘楼の下にいた。
石畳は冷え、朝霧が足首を濡らすようにまとわりつく。肩に寄りかかる猫の重さが、彼の体温を静かに伝える。猫は目を閉じ、時折小さく鼻を鳴らした。あの小さな音に、世界の輪郭が繋ぎとめられている気がした。

空は厚く、銀色の渦がゆっくりと回る。渦の中心から、鐘の音が落ちてきた。ゴォォン――
その音は普通の鐘声ではなかった。空に向かって伸びるのではなく、地面に沈み込むように伝わってきて、胸の奥の骨を低く振動させる。音は空気を引き裂き、石畳の目地を震わせ、低い唸りを何度も繰り返した。

ポン助は目を細め、指の腹で石の冷たさを確かめた。足元の石がわずかに波打ち、そこに薄い影の紋様が浮かび上がる。石と影が重なり、やがて声のようなものが滲んでくるのを、彼の肌は感じ取った。

――混ざり合うもの。
――一つにはなれぬもの。
――愛しながら、罪を抱いたもの。

その幻のような列が、石畳の目に沿ってひとつずつ並ぶ。どれも輪郭がぼやけ、いくつもの声が重なって一つの音節になっていた。ポン助は深く息を吸い、わずかに口を開いた。

「出てきなさい。
 私はあなたを見たいんです。」

呟きは祈りとも問いとも取れない、不思議な調子を帯びた。指先で小さな印を結ぶ。形はどこかで覚えたような、だが正確には思い出せないもので、指の関節が冷たく伸縮するたび、空気がざわついた。

霧が割れるようにして、黒い影が立ち上がった。
最初は、濡れた犬の毛のように黒い塊が床を滑った。それがゆっくりと身体を伴って形を取り始める。獣の胴に、人の肩。鳥の翼が背中に広がり、尾は蛇のように長く地を引く。だがそのどれでもない。どの要素も完全には馴染まず、縫い目のように不自然な継ぎ目が見える。半端なところで人間の皮膚が剥がれ、別の面が顔を出す。

影は苦悶の波を帯び、空気を押す。鵺の「身体」は揺らぎ、見る者の心に直接触れるような不定形の痛みを伝えた。呼吸が浅くなるのを、ポン助は感じた。猫の鼻がピクリと動き、毛が逆立つ。鐘の反響が、影の輪郭に歪んだ輪を描く。

「あなたは何者です?」
ポン助の声は、驚くほど静かだった。威圧も嘲笑もない。ただ、真っ直ぐに向けられた問い。

霧が震え、声が重なって返ってきた。ひとつの声ではない。幾層にも折り重なった声が、まるで古いラジオのチューニングを合わせるように互いに干渉し、揺らめきながら立ち上がる。

「わたしは――誰でもあり、誰でもない。
 封じられた声。混ざった想い。
 彼(湊)は、その核に過ぎない。」

言葉の末尾で、鵺の形がまたひとつ軋んだ。そこに、ほんの一瞬、少年の輪郭が浮かんだ。幼い笑顔。けれどその笑顔の瞳孔の奥には、別の眼差しがある。沙門の疲れた優しさ、律道の内向きの痛み、名も知れぬ複数の人生の断片が、湊の顔の上で重なっていく。

ポン助の頬を、冷たい風が撫でた。風の中に匂いが混じる――湿った土の匂い、線香の消え残り、そして淡くかつての人の匂い。彼は息を吐き、目を閉じる。胸の内で何かが動くのを感じ、唇の端で小さく言った。

「あなたたちは、何を求めたのです?」

返ってきたのは、泣きと笑いの混ざった、届きにくい嘆願だった。

「赦し。
 愛は罪ではないと、誰かに言ってほしかった。」

その言葉が弾けたとき、鵺の輪郭が一瞬ほどけるように見えた。音は合唱になり、個々の声が生々しい輪郭を示し始める。そこにあるのは怨嗟だけではない。後悔、切望、そしてやり場のない孤独。誰かが誰かを抱きしめたいという願いが、なぜか静かな怒りに変わっていた。

ポン助はゆっくりと目を閉じ、まぶたの裏に映るものを追いかけた。視界の奥底で、過去の断片が順番に現れる。封印の儀式を行う手。土を掘る者たちの疲れた顔。石棺の蓋を扱う指先。湊の小さな手が、誰かの指に触れる仕草。沙門と律道の並んだ背中。彼はそれらを一瞬ずつ見る”——それは霊視というよりも、箱の中にしまわれた記憶を開いて覗くような感覚だった。

「互いを求めながら、それを罪と感じた。
 その想いが封印を壊した――そういうことですね。」

彼の声は、気づけば穏やかだった。非難でも同情でもない。事実の声明のように、淡々とした輪郭を持っていた。鵺の形がふっと揺れ、そこから幾つかの短い、鋭い断片が飛び出した。断片は夜気に弾け、石畳に小さな亀裂のような模様を残す。

……封じたのは、人だ。
 混ざることを、恐れた。」

それは鵺の声か、過去の誰かの声か、あるいはポン助の耳だけに届いた別の層の音なのか――判別はつかない。しかし言葉は冷たく、石のように重かった。封じる側の恐怖、隠したい真実、恥の記憶。それらが、今まさに剥がれ落ちている。

霧が吹き上がり、影が一気に拡散した。鐘の一打一打に合わせて、石畳に貼られていた護符が風に舞い上がる。紙片は空中で赤い印を光らせ、次々と破れ、火でもない光で溶けて消えた。札が消える音は、枯葉が落ちる音にも似て、人の心を無言でつんざいた。

遠くで、夕子の叫びがしぼり出されるように聞こえた。
「ポン助さん――湊を、助けて!」

その声に、ポン助はゆっくりと身体を起こした。肩に乗った猫が伸びをし、鋭い鳴き声を一つ上げる。彼はゆっくりと歩き出す。歩みは軽やかだが、どこか儀式的で、足裏の感触を確かめるように一本一本石を踏む。

「混ざる魂よ。
 あなたが求めたのは、生ではなく、理解だったんですね。」

言葉は一度投げられると、霧を振動させて戻ってきた。応答はゆっくりと、そして深く返る。鵺の影の中から、小さな手が伸びた。指は細く、まだ暖かいような錯覚を与える。袖の端に触れ、やがて力を込めて掴んだ。

それは湊の手だった。生々しい血の匂いはなく、むしろ乾いた紙の匂い、過去の匂いが混じる。握られた袖の感触が確かな温度を伝えると、ポン助の胸になにかおさまる音がした。名もなき悲しみの鎮まりか、それとも新たな問いの始まりか。

「もう、帰りなさい。
 あなたが生まれた場所へ。
 ここは現(うつつ)ではない。」

言葉が霧の中で音の輪郭を描き、光が一挙に広がった。白く、刹那的な光。霧が燃えるように白く輝き、瞬間、世界の色がひっくり返るように感じられた。空と地が溶け合い、音も匂いも方向感も、すべてが溶融しながら新しい形を取っていく。

その光のなかで、鵺の輪郭が引きちぎられるように収束した。影は湯気のように消散し、残るのは小さな静寂と、少しだけ淋しげな風の音。石畳には淡い焼け跡のような模様が残り、消えた護符の粉が微かに舞った。

ポン助は片方の袖を軽く振り払い、猫を膝に戻して腰を下ろした。彼の目は幾らか赤く、だが笑いは消えていなかった。周囲が呼吸を取り戻していくなか、遠くで鵺を象ったかのような微かな鳴き声がまだ余韻を残していた。

「さて、これで一件落着といきたいところですがねぇ。」
彼の声は、いつものとぼけた調子に戻った。だが、その口ぶりの底には、今しがた見たものを確かめるような、きっぱりとした静けさが宿っていた。

そして、薄れていく霧の中で、小さな手の暖かさの記憶だけが、静かに彼の袖に残っていた。


朝。
天鳴寺を包んでいた霧は、まるで何事もなかったかのように晴れていた。
境内に散らばっていた封印札はすべて灰になり、
鐘楼には白い羽根が一枚、静かに引っかかっている。

夕子は膝をつき、涙を拭った。
蓮台院は依然として眠っているが、
その表情には穏やかな笑みが戻っていた。

縁側に腰掛けたポン助が、空を見上げて呟く。
「封印っていうのは便利な言葉ですねぇ。
 見たくないものを隠すために使う。」

猫がにゃあと鳴き、肩に乗り直す。
「さて、もう少し夢の中を歩いてみますか。」
そう言って、彼はゆっくりと立ち上がった。

空の彼方、淡い雲の隙間で、かすかに声がした。
「ヒョウ……ヒョウ……

風が吹き、白い羽根が宙に舞う。
それはまるで、夢の残り香のように空へ溶けていった。

 

【第伍章への予告・最終章】

光が消え、霧が晴れた。
鵺は姿を消したが、封印の跡はまだ温かい。
静まり返る天鳴寺の中で、
誰も気づかぬもうひとつの声が、目を覚まそうとしていた。



【登場人物】

金田一ポン助(治田笑男)
自称・名探偵にして霊媒師。飄々としていて掴みどころがない。
本人は「幽霊はいますけど、だいたい寝ぼけてるんですよ」と言う。
推理よりも感じるタイプで、時に核心をぼそりとつぶやく。

水無瀬夕子
天鳴寺の尼僧。理性的で信仰心が強いが、弟の死の記憶に囚われている。
鵺の声に「湊の呼ぶ声」を感じる。

蓮台院(れんだいいん)
天鳴寺の住職。温厚に見えるが、封印の術を継ぐ秘密を持つ。
鵺伝説を信仰の核としてきた人物。

木島刑事
現実主義者の刑事。超常を否定しながらも、次第に恐怖に呑まれる。
最後には見てしまう

沙門(しゃもん)・律道(りつどう)
若い修行僧。いつも一緒に行動し、兄弟のように仲が良い。

円正(えんしょう)
天鳴寺の古参僧。保守的で新参者を嫌う。

岡崎妙蓮(おかざき・みょうれん)
女性民俗学者。鵺伝説を研究するため寺に滞在している。
冷静な観察者のようで、実はポン助を試している節も。

 


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