『鵺ノ夢――金田一ポン助霊怪事件帖』第伍章 ~最終章
『鵺ノ夢――金田一ポン助霊怪事件帖』
~ 夢と現の狭間に揺れる鵺のささやき
第伍章 鵺の夢
朝。
霧が晴れ、陽光が山肌を撫でていた。
だがその光は、どこか白く濁って見えた。
まるで“夢”の名残が、まだ空気の底に沈んでいるかのようだった。
ポン助は、鐘楼の下に立っていた。
鐘の縁には、昨夜の羽根がまだひっかかっている。
風が吹くたび、それは微かに震え、音もなく舞い落ちた。
「夢の終わりってのは、意外と静かなもんですねぇ。」
肩の猫が、にゃあと小さく返事をする。
彼は空を仰ぎながら、境内をゆっくりと見渡した。
僧たちは後片づけに追われ、夕子はまだ蓮台院の傍を離れずにいる。
老僧は眠ったままだが、その呼吸は穏やかだ。
そして――律道の姿だけが、どこにも見当たらなかった。
木島刑事が足早に駆け寄る。
「ポン助さん、律道って僧が見当たらん。部屋も空っぽだ。」
「消えましたか。」
「逃げたってことか?」
ポン助はゆっくり首を振った。
「ええ、逃げた――けれど、“こっち”からではなく、“向こう”からですよ。」
木島は眉をひそめた。
「向こう……?」
「夢の側、ってことです。
彼は昨夜、鵺と混ざり合いかけた。
封印が解けたとき、完全に“あちら”へ引かれたんでしょう。」
刑事は言葉を失ったまま立ち尽くす。
境内の片隅、倒れた石塔の影に、僅かな黒い染みが見える。
それは血ではなく、煤のような跡。
そしてその中央に、焦げた数珠がひとつ転がっていた。
ポン助はそれを拾い上げ、掌で転がす。
「人は、自分を縛ったものに惹かれるんです。
律道さんにとって、沙門は呪いであり……救いでもあった。」
風が再び吹き、鐘がかすかに鳴った。
音の余韻の中に、微かに声が混じる。
――沙門。
――律道。
その名が、まるで遠い夢の中で囁かれるように聞こえた。
「結局、封印っていうのは“忘れる”ための方便です。
でもね――忘れたものは、夢の中で形を変えて生き続ける。」
ポン助はそう言って、鐘楼の方へ歩き出す。
鐘の内側、ひび割れた金の縁から、淡い光が漏れ、脈動するように揺れ、やがて足元に影を落とす。
その影の中から、小さな声がした。
――どうか、もう泣かないで。
夕子の声ではない。湊の声でもない。
幾つもの声が重なり合い、ひとつの名を呼んでいた。
ポン助は深く息を吸い、ゆっくりと目を閉じた。
「さぁ、続きを見せてもらいましょうか。
“鵺の夢”というやつを――」
その瞬間、光が一気に広がり、
境内の景色が波のように崩れ始めた。
地が溶け、空が落ち、朝と夜とが溶け合う。
世界が再び“夢の領域”へ沈み始めていた。
鐘の音が、溶けるように消えた。
気づけば、空の色が変わっていた。
薄明の青が、ゆっくりと裏返り、墨のような夜が流れ込んでくる。
地平は歪み、山も寺も、形を失っていく。
灯籠の火が逆さに燃え、畳が波打つ。
境内の敷石はまるで水面のように揺れ、その上に浮かぶように蓮台院が立っていた。
「……住職様?」
夕子の声が震える。
だが、老僧は答えなかった。
その瞳は閉じたまま、夢の中の誰かを見ているようだった。
ポン助は一歩前に出る。
足元の水鏡に、いくつもの顔が映る。
沙門、律道、湊、そして無数の“知らぬ人々”。
それらが溶け合い、ゆっくりと一つの姿にまとまっていく。
――鵺。
「ようやく会えましたね。」
ポン助の声は微笑を帯びていたが、その瞳は悲しかった。
鵺は形を変えながら、声を発する。
「おまえは……見える人間。」
「見えてしまうだけですよ。都合の悪いものが。」
「わたしたちは……見たくなかった。
混ざり合う心を、罪と言われる世界を。」
鵺の輪郭が揺れ、そこに“蓮台院”の若い姿が浮かぶ。
穏やかな笑みを浮かべた僧。だが、その手には封印の札が握られていた。
「……住職は、あなたたちを封じた。
永遠の命を願って。けれど、それは“死を否定する”術だった。
魂をひとつに繋げ、流転を止める……それが封印の正体。」
夕子が息をのむ。
「じゃあ……弟は……?」
鵺が、悲しげに微笑んだ。
「彼は核にされた。
純粋な魂ほど、縛りやすかったから。」
その言葉に、ポン助の表情がわずかに曇る。
彼は空を見上げた。
夢の空は、夜と朝が交わる境を漂い、色のない光が満ちている。
「人が死を怖れるのは、愛があるからです。
愛があるから、別れを嫌う。
でも、あなたたちは“別れない”ために、混ざり合ってしまった。
それは――“生きる”とは違う。」
鵺の形が大きく震え、声が重なり合って叫びとなる。
「違う! わたしたちは捨てられた!
“間違い”と呼ばれ、封じられた!
愛したことが、罪だというのか!」
その叫びが、空を裂いた。
鐘楼が崩れ、札の灰が風のように舞い上がる。
光の粒が乱れ飛び、そこに律道の影が現れた。
「……沙門……」
その声は優しく、同時に悲しかった。
律道は微笑みながら、鵺の中へ歩いていく。
「僕は、君を憎まなかった。ただ、忘れたくなかった。」
影と影が交わり、鵺の輝きが一瞬だけ柔らかくなる。
その光の中で、湊の姿が現れる。
白い小袖、幼い頬。
彼は沙門を見上げ、静かに首を傾げた。
「お兄ちゃん、もう泣かないで。」その声に、夕子が崩れ落ちた。
「湊……!」
ポン助は一歩進み、湊の頭にそっと手を置いた。
「帰りなさい。
あなたたちが混ざったのは、間違いじゃない。
でも、ここは“夢”だ。
夢はいつか、覚めなきゃいけない。」
光が強まり、風が巻き上がる。
境内が白く燃え、音が遠ざかっていく。
最後に、湊の声が微かに響いた。
――ありがとう。
そして、すべてが静まり返った。
朝。
鳥の声。
鐘楼の下で、ポン助がゆっくりと目を開けた。
肩の猫が、眠そうに伸びをしている。
「……夢でしたかねぇ。」
「さて……話をしましょうか。」
金田一ポン助は、いつも通りの軽い笑みを浮かべて立つ。
だがその目には、不思議な静けさが宿っていた。
「鵺――“混ざる魂”のことです。」
ポン助の声が、どこからともなく反響し、空間の奥行きが歪むように感じられた。
「ここで誰かと誰かが、どうしても混ざりたかった。そういう魂です。」
夕子の胸がざわつく。律道――沙門の側で静かに微笑んでいたあの人。
「おそらく、沙門さんと律道さんは……互いを、普通の形で愛してしまったんでしょうね。」
ポン助は続ける。
「そして、湊の魂が封印されたことで、他の“混ざり合う魂”も引き寄せられた。
沙門と律道も、その影響を受けたんです。
互いを求めながらも、それを罪だと感じ、封じられた愛……
その感情こそが、封印を壊す“鍵”になった。」
「では、沙門はなぜ死んだのですか?」
夕子の問いに、ポン助は静かに答える。
「魂が混ざり合う際、現世に留まることができなかったからです。封印によって縛られた魂の重みは、現実の肉体に耐えられず……結果、沙門は命を落としたのです。」
ポン助の言葉に、木島刑事は黙って頷く。
現実の天鳴寺では、事件の痕跡しか残らなかった。
寺の中で何かが起きたらしい――
だが、誰も正確な真相は知り得ない。
刑事たちの視点では、蓮台院は「湊が死んだ現場にいた僧」として疑いをかけられている。
「寺の中で何か起きたらしいが……真相はわからない」と、捜査員たちは互いに眉をひそめるだけだった。
蓮台院は、現実世界では法の監視下に置かれるかもしれない――
しかし、読者には、彼が魂を封じることで救おうとしていたことがわかる。
封印の秘密は、天鳴寺の静けさの裏でひそやかに生き続けるのだ。
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天鳴寺の朝。
境内の石畳は夜露に濡れ、光を反射して小さく揺れていた。
鐘楼の扉はわずかに開き、そこから淡い光が差し込む。
昨日までの霧は跡形もなく、代わりに空気は静かで澄んでいる。
散乱していた封印札の灰は、庭の苔の上で白く粉々になり、風に吹かれてひらひらと舞う。
住職・蓮台院は縁側に腰かけ、静かに庭を眺めている。
目には穏やかさが戻り、胸の奥の重みが少し軽くなったかのようだった。
だが現実の世界では、寺の中で何が起きたのか、刑事や僧たちには分からない。
封印の真実も、湊や沙門の死の理由も、誰も知ることはない。
「寺の中で何かあったらしい……」木島刑事はそうつぶやくが、詳細はつかめない。
蓮台院の立場は微妙だ。外部から見れば、湊が死んだことの責任を問われるかもしれない。
だが、封印の術と魂の絡み合いを知る者は読者だけ。
現実では、謎に包まれたまま、天鳴寺の日常は静かに再開されるのだった。
風が吹き、鐘がひとつ鳴った。
ゴォォン――。
ポン助は微笑み、帽子をかぶり直す。
「ま、鵺も成仏するにも手続きがいるんでしょうねぇ。」
そして、どこからか呼ぶ声。
「治田さん?」
彼は振り返り、笑う。
「いえ、金田一ポン助です。」
風の中、白い羽根がひとつ、空へ舞い上がった。
「ヒョウ……ヒョウ……」
その声が、夢の続きのように響いた。
遠くで鐘が鳴る。
空に白い羽根がひらりと舞い上がり、風が境内を通り抜ける。
天鳴寺には再び静けさが戻った。
だが、微かに鵺の囁きが残り、愛と封印の記憶をそっと伝えていた。
――完
【登場人物】
金田一ポン助(治田笑男)
自称・名探偵にして霊媒師。飄々としていて掴みどころがない。
本人は「幽霊はいますけど、だいたい寝ぼけてるんですよ」と言う。
推理よりも“感じる”タイプで、時に核心をぼそりとつぶやく。
水無瀬夕子
天鳴寺の尼僧。理性的で信仰心が強いが、弟の死の記憶に囚われている。
鵺の声に「湊の呼ぶ声」を感じる。
蓮台院(れんだいいん)
天鳴寺の住職。温厚に見えるが、封印の術を継ぐ秘密を持つ。
鵺伝説を“信仰の核”としてきた人物。
木島刑事
現実主義者の刑事。超常を否定しながらも、次第に恐怖に呑まれる。
最後には“見てしまう”。
沙門(しゃもん)・律道(りつどう)
若い修行僧。いつも一緒に行動し、兄弟のように仲が良い。
円正(えんしょう)
天鳴寺の古参僧。保守的で新参者を嫌う。
岡崎妙蓮(おかざき・みょうれん)
女性民俗学者。鵺伝説を研究するため寺に滞在している。
冷静な観察者のようで、実はポン助を試している節も。
次回予告
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