『Kallsson 泉 ピン子は見ちゃった! 〜層雲峡・熊の皮をかぶった殺意〜』第2話
第2話 雪見庵の夜、そして熊の影
雪見庵——。
古い木造の梁が低く走る食事処。
窓の外は一面の銀世界。
雪明かりが障子を透かして、室内を仄かに青く染めていた。
湯気の向こうで、味噌の香ばしい匂いが漂う。
鍋の中では、鹿肉がゆっくりとほぐれ、
脂が花びらのように湯の表面に散っていく。
香り立つ山椒と、焦がしネギの甘い香り。
ピン子は思わず鼻をひくつかせた。
「……いい匂い」
「ねぇピン子、写真撮っとこうかしら!」
「母さん、それは食べてからでも」
しげ子はスマホを構えて、あっという間にシャッターを切った。
「こういうの、SNSに載せると“いいね”いっぱい来るのよ〜」
「母さん、ここWi-Fiないよ」
「え?じゃあ翌日載せる!」
【料理の饗宴】
前菜は、吹き寄せ小鉢。
鮭の昆布締め、山菜の白和え、雪のように白い百合根の甘煮。
一つひとつが小さな宝石のように整えられている。
次に、川魚の塩焼き。
炭火でじっくり焼かれたヤマメが、尾をぴんと立てて皿の上に横たわっている。
皮の焦げ目から、ふわりと香ばしい香りが広がる。
「うわぁ……おいしそう!」
「頭からいけるかしら?」と、しげ子。
「母さん、無理しなくていいよ……」
「いけるわよ!」
ぱりっ。
頭を噛み切った瞬間、しげ子の顔がほころぶ。
「う〜ん!香ばしい!お酒が欲しくなる!」
木村板前が、静かに酒を注ぎに現れた。
無口で、丁寧だった。
「お口に合えば何よりです」
「お兄さん、すごいわねぇ!料亭で修行してたの?」
木村は小さく首を振った。
「……熊乃湯に来て、もう十五年になります」
その声には、淡々とした響きの奥に、わずかな影があった。
ピン子は目を細める。
(この人……何か、抱えてる)
そして、メインの鍋が湯気を立てて運ばれてくる。
「熊乃湯名物・山の幸鍋」。
鹿肉と舞茸、そして地元野菜がぐつぐつと煮立ち、
味噌の香ばしさと山椒の清涼な香りが広がった。
「これは……いい匂い」
「お姉さん、山椒を少し入れるといいですよ」
【隣の席・小暮忠志】
声をかけたのは、隣の席でひとり静かに酒を飲んでいた男だった。
毛糸の帽子を脱いだ顔は日に焼け、頬には風の跡のような皺が刻まれている。
年の頃は四十代半ば。
厚手のセーターの袖口には、ロープで擦れたような跡があった。
「……ありがとうございます」
ピン子が笑顔を返すと、男は軽く会釈した。
「この山椒、層雲峡の山で採れるんですよ」
「地元の方ですか?」
「ええ、登山ガイドをやってます。小暮といいます」
「登山ガイド!すごい!」と、しげ子が身を乗り出す。
「熊とか出るんでしょ?」
「ええ、たまにね。出ても、向こうから逃げてくれる。人間のほうが怖いんですよ」
「まぁ〜!怖いのは人間、ねぇピン子!」
「母さん、そのまとめ方やめて」
小暮は小さく笑った。
笑顔は柔らかいが、目の奥には何かしらの孤独が潜んでいた。
【高梨カメラマンの登場】
「いやぁ、ガイドさんの話、面白いですね」
別の席から声がした。
若い男——高梨祐介。
フード付きのダウンと立派なカメラが傍らに置かれている。
「僕、フリーのカメラマンなんです。
この宿の冬景色、撮りに来たんですよ」
「まぁ、素敵じゃない!」としげ子。
「ピン子、見てよ。若いのに仕事してるわ〜。
あんたもそろそろ結婚とか……」
「母さん、話が早い」
高梨は笑い、
「ここの雪、いいですよね。音を吸い込む感じがする」と窓を見やった。
小暮が頷いた。
「雪が音を吸う……いい表現ですね。
でも、その静けさの中に、時々“何か”の声が混ざることがある」
「“何か”って……?」ピン子が問う。
小暮は笑って誤魔化した。
「冗談ですよ。山では音が増幅するんです。風のせいでね」
だが、笑みの奥に一瞬だけ影が差した。
【女将の登場】
「お口に合いましたか?」
静かな声。
その所作には、隙がない。
「最高ですよ、女将さん。温泉も料理も。
それに、あなたのような方が迎えてくれたら、男は誰でもまた来たくなりますねぇ」
小暮の声に、絹代はほんの一瞬だけ微笑んだ。
だが、その笑みは冷たい。
「お客様、どうぞごゆっくり」
短く礼をして、去っていく。
その背中を、小暮は目で追った。
「ふふ、あの人……昔は綺麗だったろうな」
「今もお綺麗じゃない」とピン子。
「いや、違うんだよ。ああいう人は、心の奥に何かを閉じ込めてる。
そういうのが、男にはたまらない」
小暮はグラスを傾け、
その指先に熊の形をしたお守りを弄んでいた。
ピン子の目がとまる。
(……あれ、どこかで)
【デザートと余韻】
デザートは「熊乃湯名物・雪見まんじゅう」。
白あんの中に刻んだユリ根とハスの実。
表面には、うっすらと熊の焼き印。
「可愛い〜!食べるのもったいない!」
「母さん、もう半分食べてる」
「こういう小さな“こだわり”、いいですよね」
高梨が笑う。
小暮は、湯呑みを手にしながらぽつりと呟いた。
「“こだわり”……それが人を壊すこともある」
ピン子が眉をひそめる。
「どういう意味ですか?」
「いや、仕事の話ですよ」
小暮は笑ってごまかしたが、その笑いは目に届いていなかった。
その後、彼は女将の姿を探すように何度も振り返りながら、
酒を重ね、ふらりと食事処を出て行った。
その背を、ピン子は無意識に目で追っていた。
胸の奥で、何かが引っかかっている。
それは、雪の夜に似た、白く冷たい予感だった。
【露天風呂の夜】
夕食を終え、夜の帳がゆっくりと降りていた。
層雲峡の夜は静かだ。
風が雪壁を撫でる音だけが、世界の残響のように聞こえる。
露天風呂は宿の裏手、雪囲いに守られた岩風呂だった。
灯籠の淡い光が湯面を照らし、
湯けむりは夜空へ細く立ちのぼっていく。
空には、透きとおるような満月。
遠く、流星の滝のほうから、絶え間ない水音がかすかに響いていた。
それはまるで、凍った世界の心臓が脈を打っているかのようだった。
「ひゃ〜!寒い!でも気持ちいい〜!」
すでに湯に浸かっていたしげ子の声が、夜気を破った。
頭の上にタオルをのせ、頬を紅潮させている。
「母さん、ちょっと声が大きいよ……」
ピン子も肩まで湯に沈み、空を見上げた。
湯の表面に映る月が、揺らめきながら二人を包み込む。
「やっぱり来てよかったね」
「でしょ〜?雪見風呂って最高ね! ねぇ、ほら、雪が舞ってる!」
「……でも、誰もいないね」
「貸し切りみたいなもんよ。ほら、静かで最高——」
「……あれ?」
しげ子が指をさす。
「ほら、あっち、誰かいる」
湯けむりの向こう、岩の陰。
確かに、ひとりの男の影があった。
背の高い男。
髪は濡れていて、肩から湯気が立っている。
その横顔は月明かりに照らされていたが、
湯けむりに包まれ、輪郭は曖昧だ。
男はゆっくりと湯に浸かり、こちらには目もくれない。
ただ静かに、両手を膝の上に置き、
湯面を見つめているようだった。
ピン子は、その顔を見つめた。
どこかで——見たことがある。
どこで、だったか……。
(……あの人、帳場で見かけた……?)
けれどその瞬間、風が吹いた。
湯けむりが濃くなり、
男の姿が一瞬にして霞の中に飲まれる。
「母さん、誰かいるけど……」
「本当?全然見えないわよ?」
そう、男の方からは二人の姿は見えていなかった。
灯籠の明かりの位置のせいで、
湯けむりの幕が一方通行のように働いていたのだ。
ピン子たちからは彼が見えるが、
男の視界には白い霧しか映っていない——。
その奇妙な隔たりの中で、
ピン子はしばらく湯けむりの奥を見つめていた。
男はゆっくりと立ち上がり、
背を向けると、湯けむりの向こうへ消えていった。
月光がわずかに反射し、彼の背中が濡れた獣のように輝いた。
(……まるで熊みたい)
ピン子の胸に、言葉にならないざわめきが走った。
しばらく二人は雪と湯気の中に溶け込むように、沈黙の時間を楽しんでいた。
だが、しげ子はやがて、ゆっくりと立ち上がった。
「私は先に部屋に戻るわ。お酒も少し飲みたいしね」
そう言ってタオルを頭にのせ、湯を蹴るようにして雪道を歩く。
ピン子は手を振るだけで、母の後姿を見送った。
一人きりの露天風呂
母が去った後の露天風呂は、さらに静かになった。
湯けむりの向こうに雪の白、月の光、そして揺れる提灯の灯りだけが残る。
ピン子は肩まで湯に沈み、静かに息を吐いた。
湯のぬくもりと冷たい夜気の対比が、心を研ぎ澄ませる。
「……こんなに美しいのに、どうして誰もいないんだろう」
胸の奥が不思議にざわつく。
静寂の中、一人でいることの贅沢さと、どこか孤独な心持ちが入り混じり、胸に深く染み入る。
雪の匂い、冷たい空気、湯の香り——すべてが五感を満たし、時間の感覚すら変えてしまうようだそんなとき——突然、遠くの方で、低く男の悲鳴が響いた。
「ぎゃああっ!!!」
雪に吸い込まれるような声。
ピン子の心臓は飛び跳ね、胸が張り裂けるかと思う。
「誰か……助けてくれ……!」
思わず湯から飛び出し、体を拭き、着替える。
雪の冷たさが肌に突き刺さる。だが、躊躇している暇はない。
声のした方へ、足を取られながらも必死に駆ける。
闇の中の死体
小道を曲がると、雪明かりの中に異様な光景があった。
全裸の男の体が雪の上に倒れている一一温泉から出たところを襲われたのだろうか、裸の体にはまだ湯気が立ち上り、白い息と湯の熱気が空気に溶け込んで揺れている。黒い毛皮の塊が傍らに散乱し、雪の白と黒のコントラストが不気味に、しかしどこか美しく浮かび上がる。
「小暮……!」
思わず声を上げ、ピン子は手を口に当てる。胸が押し潰されるような感覚に襲われ、足が震える。
その瞬間、視線は雪煙と湯けむりに包まれた暗がりの向こうに吸い寄せられた。かすかな人影——熊の着ぐるみを脱ぐような腕の動きが見えたように思える。暗くてはっきりとは見えず、誰の腕かも分からない。だが、直感が告げる——人の腕だ。
風が吹き、雪煙が舞い上がると影は消え、再び何も見えなくなった。恐怖と謎が胸に押し寄せ、呼吸すら忘れそうになる。
その時、悲鳴を聞いた宿泊客たちが、雪道を駆けて次々に集まってきた。
「熊だ! 本物の熊だ!」
「逃げろ!」
雪と湯けむり、暗闇が錯覚を生み、全員が熊の襲撃だと思い込む。ピン子の目に映った腕の動きは、他の誰にも分からず、心の奥にだけ不確かな証拠として残った。
少し遅れて、女将・野々村絹代が現れる。落ち着いた表情で客たちを取りまとめ、現場を整理する。
「皆さん、落ち着いて。まずは部屋に戻ってください。安全ですから」
ピン子の胸の奥ではざわめきが止まらない。暗がりで見た腕の動き——熊の頭部を外すような仕草——誰のものかは分からない。ただ、確かに“人の動き”だったことだけは、揺るぎなく目に焼き付いている。
雪と闇に閉ざされた夜。
誰も信じない“真実”がひっそりと動き出した。
熊に見えたものの下には、人の影が潜んでいた——
ナレーション(低く、静かに)
恐怖の夜。
雪と闇に包まれた雪見庵で、誰も信じない“真実”がひっそりと動いた。
熊に見えたものの下に潜んでいたのは——
人か、それとも……。
エンディングテーマ「哀しみの白い道」フェードイン
【第3話 予告】
深夜の悲鳴の翌朝、雪に覆われた熊乃湯で小暮忠志の無惨な死体が発見される。
警察と宿泊客たちが騒然とする中、ピン子だけは昨夜の暗がりで見た腕の動きを思い出す。
これは本当に熊の仕業なのか——山里の静かな旅館に、真実の影が潜む。
登場人物紹介
Kallsson・泉 ピン子 スウェーデンからの帰国後、母に連れられて北海道・層雲峡の温泉旅館へ向かう物語の主人公。物静かな性格。
泉 しげ子 ピン子の母。奔放で思い立ったら即行動の派手な女性で、娘を連れ出し「事件」に遭遇することを期待している。
野々村 絹代 層雲峡温泉「熊乃湯」の女将。落ち着いた所作を持つが、その瞳の奥には何か静かな暗い波を秘めている。
木村「熊乃湯」に勤める板前。腕は立つが、気難しいと言われる。
小暮 忠志 旅館に宿泊している登山ガイドの男性。日に焼けた顔に風の跡のような皺を持つ。
高梨 祐介 旅館に宿泊しているフリーのカメラマンの男性。冬の雪景色を撮影するため宿を訪れた。
田所 トメ子 ピン子の隣人であり友人。メッセージアプリを通じてピン子の状況を知る。
山崎巡査部長 事件発生後、旅館に駆けつけた層雲峡駐在所の警官。
仲居(女中・春江など)旅館「熊乃湯」の従業員。宿泊客への案内や給仕を担当する。
帳場で見かけた謎の男性 旅館の帳場付近でたびたび見かけられる30代くらいの物静かな男性。
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