『Kallsson 泉 ピン子は見ちゃった! 〜層雲峡・熊の皮をかぶった殺意〜』第3話
第3話 母の暴走と謎の連鎖
雪に包まれた朝
雪は静かに降り続けていた。
層雲峡の熊乃湯は、一夜にして凍りついた静寂の中にあった。
露天風呂での悲鳴——小暮忠志の声——が、まだ空気にこだましている。
その声の余韻を残したまま、冬の朝は白く明るくなった。
ピン子は雪の匂いを吸い込みながら、部屋の窓から庭を見下ろす。
湯気の残る露天風呂には、昨日の痕跡だけが残り、夜の恐怖の現場とは打って変わって、静かで無垢な光景だった。
だが、胸の奥には昨夜の光景が焼きついて離れない——湯けむりの向こうで見た、熊の頭部を外すような腕の動き。人の腕……確かに見たのだ。
そのとき、部屋の扉が勢いよく開いた。
「ピ〜〜〜ン子!お母さん、来たわよ〜〜!」
しげ子は、死体が近くに横たわっているにも関わらず今朝また湯に浸かりに行き、体を拭いたばかりのバスタオルを巻きつけたまま、雪道を駆け上がってきたかのように、息を切らして笑っていた。
この母の神経の図太さと言うべきなのか無神経さと言うべきなのか、ピン子はそれを考えるだけでも疲れるようだった。
「母さん……!」
「よし、事件現場をもう一度確認しに行くわ! ピン子、指紋くらい取っとかないと!」
「や、やめて……!それ証拠汚染になるって……!」
母の笑顔は無邪気だが、その勢いは凶器に匹敵した。
ピン子は慌ててしげ子を止めようとするが、既に母は雪道を駆け下り、露天風呂の付近まで進んでいた。
昨夜の雪は踏み固められ、足跡が迷路のように残っている。
母は足跡を追いかけながら、次々に自分の足跡で雪原を塗り替えていく。ピン子は深いため息をつき、雪に足を取られながら母を追った。
しげ子は勢い余って、露天風呂の岩陰に目を止めた。そこには、茶色っぽい毛の塊のようなものがある。
「ほら、これよ!熊の毛に違いないわ!」
ピンセットを手に取り、毛を摘もうとする。だが、ピン子がそっと近づくと、それはただのタワシの毛であることが判明。
「……母さん、それ、ただのタワシ」
「な、なんですって!DNA取るわよ!」
母はまだ諦めきれず、毛を押さえつけながら無邪気に科学者のような目を輝かせる。ピン子は肩を落とし、息を整えつつ母を止めるしかなかった。
その騒ぎの最中、30代くらいの男性が庭の端に立っているのが目に入る。黒いダウンにフードを被り、顔は少し隠れている。目が合うと、彼は軽く頭を下げ、雪の中に姿を消した。ピン子の胸に不安が走る。
(……あの人、たしか昨夜帳場にいた…….?)
しかし、母の視線はそんな些細なものに気づかない。
「ピン子!あの人も巻き込んで、事件の全貌を確認するわよ!」
「やめて母さん……!」
混乱の連鎖
その瞬間、旅館の廊下から女将・絹代の声が響いた。
「泉さま……!お母様、そこは……!」
しかし、しげ子は笑顔で手を振り、まるで探偵ごっこを楽しむ子供のように、雪の中で跡を追う。
庭に散らばった小道具——熊のぬいぐるみや枝——を片手に、母は現場検証の名のもとに、次々と証拠を“調べる”。
ピン子はもはや諦め、母の後ろを静かに追うしかなかった。
ピン子は深いため息をつき、スマホを取り出す。
(トメ子に連絡……)
指を動かしかけた瞬間、しげ子が雪の上を跳ね回り、自分の足跡で証拠を塗りつぶしてしまった。
「ピン子!あの跡も見逃さないで!」
ピン子はため息をつき、スマホをポケットに戻す。
(……また後で報告するしかないか)
母が勝手に現場検証を進めるうちに、宿の中は混乱の渦に包まれた。
宿泊客たちは雪に驚き、熊だと思い込んで逃げ惑う。
女将も必死で収拾を試みるが、しげ子の奔放さに現場はめちゃくちゃだ。
ピン子は静かに、自分だけが昨夜見た“人の腕”を思い返す。
他の誰も信じてくれない——
そう、熊に見えたものの正体は、人間だったのだ。
警察到着と証拠の行方
ほどなくして、パトカーと救急車のサイレンが雪道を切り裂いた。
雪に阻まれ、今朝になってやっと到着できたのだ。
赤い光が白い雪面に反射し、宿の玄関に二人の警官が姿を現す。
「皆さん、落ち着いてください! これから昨夜の事件について聞き取りを行います!」
先頭に立つのは層雲峡駐在所の巡査部長・山崎。厳しい目であたりを見渡すと、現場の惨状に息を呑んだ。
「……なんだ、これは」
露天風呂の周囲には足跡が無数につき、雪は掘り返され、岩の上には誰かが置き忘れたピンセットとタワシの毛。
「現場が……完全に荒らされてるじゃないか」
隣の若い巡査が呆然と呟く。
そこに雪まみれのしげ子が立っていた。
「警察の方! お母さんも証拠確認します! 指紋も取っとくわよ!」
ピン子は顔を真っ赤にして叫んだ。
「母さん! やめてってば!」
「いや……ちょっと、奥さん!」と山崎巡査部長が声を荒げる。
「これは事件現場なんです! 素人が踏み込んでどうするんですか!」
しかししげ子は愛想笑いを浮かべながら、ピンセットを掲げてみせた。
「大丈夫ですって! 証拠はこれ。熊の毛を採取しました!」
「それ、タワシですよ!!!」
ピン子の悲鳴が雪に吸い込まれた。
警官たちは顔を見合わせ、深いため息をつく。
「……現場保全が完全にダメだな」
「足跡も、誰のものか分からなくなってます」
若い巡査がスケッチブックを取り出してメモを取るが、雪に混じった足跡は複雑すぎて判別できない。
「これは“証拠壊滅”だ」と山崎がつぶやく。
少し離れた場所では、もう一人の警官と救急隊員が、露天風呂脇に横たわる死体に毛布をかけていた。
「外から見えないように……」
死体はすでに硬直が始まっている。顔の半分は湯けむりで赤く腫れ、もう半分は雪で凍っていた。
ピン子はその光景に息を呑む。昨夜、自分が見た“腕”が、確かにそこにあった。
救急隊員が検視の準備を始める。
「搬出します。検視は旭川の医務室で」
担架が運び込まれ、警官たちが周囲の視線を遮るように立つ。
女将の絹代が胸の前で手を合わせた。
「……お気の毒に」
静かに呟くその声が、雪の中に吸い込まれた。
死体は毛布に包まれ、ゆっくりと運び出される。
外ではエンジン音がかすかに響き、担架がパトカーの影に消えていく。
その一部始終を、ピン子は窓越しに見ていた。
館内では、宿泊客たちが口々に昨夜の恐怖を語っていた。
「熊が出たんですよ! 露天風呂の方から!」
「本当に熊が襲ってきたんだ、私は見たんです!」
その声に、若い巡査がうなずく。
「なるほど……熊による事故の可能性が高いですね」
だがピン子は必死に割って入る。
「違うんです! 熊じゃありません。腕を見たんです。人の腕でした!」
山崎が怪訝そうにピン子を見る。
「人の腕?」
「はい……湯けむりの向こうに、誰かが——」
「その“誰か”を見た証拠は?」
「……いえ、それは……」
言葉が続かない。しげ子が横からのんきに笑う。
「まぁまぁ、娘がちょっと取り乱してるだけでして!」
「母さん黙ってて!!」
ピン子の声が裏返る。
その空気をやわらげるように、女将の絹代が静かに前へ出た。
「おまわりさん、どうかお茶でも……落ち着いてくださいまし」
山崎は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。では、関係者の方から順にお話を伺います」
最初に呼ばれたのは板前の木村。
白衣の袖を汚したまま、落ち着かない様子で話す。
「夜の仕込みを終えて、裏口から厨房に戻ろうとしたとき、外で何か音がして……。でも雪で視界が悪くて、熊か人かまでは……」
続いて呼ばれたのは高梨カメラマン。
黒のダウンを羽織り、肩にカメラバッグを提げている。
「昨日は料理の撮影で宿に泊まってました。事件のことは、廊下で騒ぎを聞いて外を覗いたくらいです。……ただ、あの夜、露天風呂の照明が一瞬消えたのが気になってました」
その言葉に山崎が反応する。
「照明が……? 停電か?」
「いえ、意図的に消されたような、そんな感じでした」
一瞬、場の空気が張り詰めた。
仲居の春江も呼ばれる。
「夜中に露天の方で人影を見たってお客様が……。でも私が行ったときには何も……」
春江の手は小刻みに震えていた。
一通りの聴取が終わると、山崎は帳面を閉じ、皆を見渡した。
「いいですか。現時点では熊による事故として扱いますが——」
声を少し強める。
「警察から許可が出るまで、誰もこの旅館から出ないでください。
外に出るのは危険ですし、もし人為的な関与があるなら、証拠保全のためでもあります」
客たちはざわめき、空気が一気に凍りついた。
「えっ……閉じ込められるってことですか?」
「そんな……」
女将の絹代が静かに頭を下げた。
「皆様、どうかご協力を。命を守るためです」
ピン子の胸に、氷のような不安が広がる。
母は雪に腰を下ろし、「ふふ、証拠確認完了〜」と満足げに笑っている。
警官の視線を気にもせず、雪玉を作っては投げ、現場の雪をさらに荒らしていく。
ピン子は怒りと焦りに胸を押しつぶされそうになった。
(どうして誰も信じてくれないの……?)
外では再び雪が強くなり、サイレンの音が遠ざかっていった。
ピン子はポケットからスマホを取り出す。
(……トメ子に連絡、しなきゃ)
だが背後でしげ子が叫ぶ。
「ピン子! 足跡もう一回見直そ!」
ピン子はため息をつき、スマホをそっとしまった。
白い雪がしんしんと降り続く。
熊乃湯は、静かな監禁の中で、息を潜めていた。
謎は深まる
警察が書類をまとめて一旦引き返し、宿泊客たちを帰室させた後、ピン子は宿の廊下を歩く。
昨夜の雪道、露天風呂の向こうで見た男の影——
30代の男性——は、今も玄関の外で静かに雪を踏んでいた。
ピン子の視線が再び合う。
男は小さく頭を下げると、雪の中に消えていった。
なぜ、昨夜そこにいたのか——
なぜ、露天風呂の近くに——
そして、熊の着ぐるみのように見えた腕は誰のものだったのか——
宿の廊下に戻ったピン子は、母の笑い声を聞く。
「ねぇピン子!事件現場のチェック、楽しかったわね〜!」
「母さん……!」
ピン子は深呼吸をし、心の中で誓った——
真実は、自分の目でしか見極められない、と。
ナレーション(低く静かに)
雪に閉ざされた熊乃湯。
誰も信じない“真実”は、ひっそりと動き出す。
熊に見えたものの下には、人の影が潜んでいた——
そして、物語は、まだ序章に過ぎない。
エンディングテーマ「哀しみの白い道」フェードアウト
次回予告(ナレーション調)
次回、第4話。
小暮忠志の死の真相を追う警察と、母・しげ子の暴走が交錯する。
そして、ピン子の目の前に、再び謎めいた30代の男性が現れる——。
登場人物紹介
Kallsson・泉 ピン子 スウェーデンからの帰国後、母に連れられて北海道・層雲峡の温泉旅館へ向かう物語の主人公。物静かな性格。
泉 しげ子 ピン子の母。奔放で思い立ったら即行動の派手な女性で、娘を連れ出し「事件」に遭遇することを期待している。
野々村 絹代 層雲峡温泉「熊乃湯」の女将。落ち着いた所作を持つが、その瞳の奥には何か静かな暗い波を秘めている。
木村「熊乃湯」に勤める板前。腕は立つが、気難しいと言われる。
小暮 忠志 旅館に宿泊している登山ガイドの男性。日に焼けた顔に風の跡のような皺を持つ。
高梨 祐介 旅館に宿泊しているフリーのカメラマンの男性。冬の雪景色を撮影するため宿を訪れた。
田所 トメ子 ピン子の隣人であり友人。メッセージアプリを通じてピン子の状況を知る。
山崎巡査部長 事件発生後、旅館に駆けつけた層雲峡駐在所の警官。
仲居(女中・春江など)旅館「熊乃湯」の従業員。宿泊客への案内や給仕を担当する。
帳場で見かけた謎の男性 旅館の帳場付近でたびたび見かけられる30代くらいの物静かな男性。
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