『Kallsson 泉 ピン子は見ちゃった! 〜層雲峡・熊の皮をかぶった殺意〜』第4話
第4話 第四幕:疑惑と真実
層雲峡の雪は、昨夜の混乱にもかかわらず、今日も静かに降り続けていた。
窓の外に広がる白銀の世界は、一見穏やかで、まるで何事もなかったかのように見える。しかし、ピン子の胸の内は、まったく平穏ではなかった。
彼女は布団にくるまりながら、しばらく目を閉じていた。
頭の中には、昨夜の出来事がくっきりと蘇る——雪道で見た腕の動き、露天風呂の岩陰で揺れる影、そして何よりも、小暮忠志の無惨な死の光景。
「……やっぱり、ただの熊じゃなかった」
小さく呟いてみても、言葉は自分の胸をも打つようだった。
あの腕の動きは、明らかに人のものだった。熊の爪では絶対にありえない、筋肉の反応としなやかさがあった。
ピン子は毛布を抱えたままベッドの端に座り、頭を抱える。
「誰が……なんで……」
問いかけても、答えは返ってこない。昨夜の混乱で、目撃者たちは皆、半信半疑のまま。警察も最初は“熊による被害”として処理してしまった。
視線を窓の外に戻す。雪は絶え間なく降り積もり、庭木や屋根の形をやわらかく覆っている。
その静けさが、逆に胸のざわめきを際立たせる。
「でも……」
ピン子は自分の手元に置かれたノートを見下ろす。昨夜、手早くメモした情報が雑然と書かれていた。
「目撃者の証言、時間の流れ、現場の足跡……どれも矛盾がある」
特に、露天風呂のそばで見た“黒い影”は、雪に溶け込みながらも、確かに人間の輪郭を持っていた。
彼女は頭を振り、思考を整理しようとする。
「熊が襲った、ってだけじゃ説明がつかない。あの動き、人間……もしかして、計画的に……」
考えれば考えるほど、心臓がざわつく。だが、恐怖よりも、知りたい気持ちが勝っていた。
布団の中で手を握りしめる。
「……どうしよう。警察に任せるべき?でも、彼らはまだ熊説で止まってる」
昨夜、しげ子が現場で証拠を“確認”していたことも思い出す。母の無邪気な暴走が、状況をさらに混乱させた。雪の上に残された足跡や、露天風呂の岩陰で見つけた“熊の毛”と称するタワシの毛——すべてが、警察の判断を狂わせてしまった。
ピン子は目を閉じ、深呼吸をひとつ。
母のことも思い浮かべる。しげ子はいつも能天気で、他人の迷惑を顧みず行動する。でも、そんな母の無邪気さが、今の自分を突き動かすヒントにもなる。
「……母さんの暴走も、悪いことばかりじゃなかったのかもしれない」
やがてピン子は決心する。
「よし……自分で調べてみよう」
恐怖に押し潰されている暇はない。目の前の謎は、自分の目で確かめ、手で解き明かすしかない。
布団を跳ね除け、部屋を出る前に、もう一度窓の外を見やる。
雪に覆われた旅館の庭には、誰もいないように見える。しかし、ピン子の心には確かに、昨夜見た帳場の近くに立つ30代男性や、怪しい板前・木村の姿が浮かんでいた。
「……あの人たちのことも、ちゃんと調べなくちゃ」
足元でしげ子が寝息を立てているのを確認し、ピン子は小さく唇を引き結ぶ。
「母さん、邪魔しないでね。今度は自分の目で真実を見つけるから」
決意を胸に、ピン子はそっと部屋を出た。
静かな雪の旅館。その白銀の世界の中で、彼女の調査は今、静かに始まろうとしていた。
旅館内での聞き取り
ピン子は階段をそっと降り、旅館の廊下へと足を進めた。
雪明かりが障子を透かし、廊下の板に淡い青白い影を落としている。外は静かだが、旅館の中には昨夜の混乱の余韻がまだ漂っていた。
まずは、昨夜の夕食で気になった人々に話を聞くことにした。
雪見庵に向かう途中、仲居の若い女性に声をかける。
「すみません……昨夜の夕食時のこと、少し教えてもらえませんか?」
仲居は少し驚いたように目を見開くが、すぐに柔らかな笑顔に戻る。
「もちろんです。昨夜は本当に大変でしたね……お客様が慌てて逃げて、私も走り回っていました」
ピン子はうなずきながら、心の中で昨夜の光景を思い出す。湯けむりの向こう、黒い影が揺れる様子——人の手の動きだった。
「その……露天風呂の近くで、少し変わった人影を見ませんでしたか?」
仲居は首をかしげる。
「変わった方……ですか?」
「30代くらいの男性で、帳場のあたりにいた人です」
仲居の表情がぱっと開く。
「ああ、その方なら、確かに昨夜帳場で見かけました。ちょっと物静かで、でも目立つ方ではありましたね」
ピン子は胸の中でメモを取る。
——あの帳場の男性。やはり何か目的があってここにいたのか……。
次に板前の木村の動向を探る。厨房の扉を静かに押し開くと、木村は丁寧に包丁を研いでいた。
「木村さん、少し話を聞かせてもらえますか?」
木村は無言で手元を止め、細い目でピン子を見上げる。
「……昨夜のことですか?」
「はい。小暮さんのこと、露天風呂のあたり、何か不審なことを見ませんでしたか」
木村はしばらく沈黙し、皿の上の水滴を丁寧に拭いながら答える。
「……私、見ていません。ただ、あの雪の中で誰かが動いていた気配は感じました」
——目を逸らす仕草。手の微かな震え。ピン子は鋭い観察力で察する。
「何か、隠している……?」
昼を少し過ぎた頃、ピン子はこっそりと絹代の部屋の前に立った。
廊下には誰もおらず、雪解け水で濡れた足音も消えている。心臓が早鐘のように打つ。
「……行くしかない」
ピン子は小さく息を整え、そっと扉の鍵を確認する。少しだけ開いた隙間から中が覗ける。
静かに押し開け、応接間に忍び込む。
部屋には落ち着いた雰囲気が漂い、壁には古い写真や熊の置物が並んでいた。まるで旅館の歴史そのものが閉じ込められているかのようだ。
ピン子はまず、周囲を見渡す。
棚には古い書籍や旅館の記録らしきファイルが整然と並び、窓際の机には手紙や小物が置かれている。熊の置物や土産物、着物の切れ端——どれも旅館の長い歴史を感じさせる。
目を細め、指先でそっと熊の置物に触れ、質感や細工を確認する。部屋の隅に積まれた新聞や書類もめくり、過去の出来事やこの旅館にまつわる記録を探る。
観察を続けるうちに、棚の下のアルバムに視線が吸い寄せられる。
手に取るとページをめくり、そこでピン子の心はざわついた。
ピン子は物音を立てないよう慎重にアルバムを手に取り、ページをめくる。
そしてあるページに目が止まる。
そこには、若い頃の絹代と、熊の着ぐるみを着た男性の写真が並んでいた。
——あの夜、露天風呂の湯けむりの向こうで見た人影と同じ形状の熊の仮装だ。
ピン子の心はざわつく。写真の男性の顔を見ると——はっとした。
「……小暮さん……?」
男性は間違いなく小暮忠志だった。顔立ちや佇まい、手の形までもが記憶と重なる。
写真の中の小暮は微笑んでいるが、どこか影を帯びており、ピン子は目を細めた。
ページの端には、鉛筆で書かれた走り書きのメモがある。そこには「熊の着ぐるみイベント」「小暮さんと撮影」などの文字が見えた。
「……なるほど、あの着ぐるみは単なるマスコットじゃなくて、かつてイベントに使われていたんだ」
ピン子は静かに息を吐き、思考を巡らせる。
古い写真では、若い絹代と小暮さんらしき男性が微笑んで立っている。熊の着ぐるみは少しずれた位置に置かれ、まるで何かを隠しているかのようだった。
ページをめくりながら、ピン子は考え込む。
——この過去には何か複雑な事情があるのかもしれない。でも、少なくとも昨夜の事件とは直接関係ないのかも……。
慎重にページを戻し、アルバムを元の位置に置く。
廊下の冷たい空気が頬に触れ、心を引き締める。
「よし、自分で調べてみよう」
心に決め、ピン子は小さく頷ずき絹代の部屋を出た。
ピン子が帳場の方へ行くと、そこにはあの男が昨日見た場所と同じ場所に立っていた。
ピン子は玄関前に立つ帳場の30代くらいの男性にゆっくりと近づいた。
雪は細かく降り続け、彼の黒いコートにうっすらと白く積もる。男性はじっと帳場の奥を見つめ、まるで何かを待っているかのように動かない。背筋はまっすぐで、手はポケットに入れたまま。立ち姿だけで何か目的を秘めていると感じさせた。
「……昨日、帳場にいらっしゃいましたよね?」
ピン子は声をかける。男性は一瞬目を細め、顔を上げた。微かに口元を緩めるが、その視線は鋭く、まるでピン子の心の中を探るかのようだった。
「……ええ、少しお話を……」
男性の声は落ち着いていたが、どこか計算された響きがある。ピン子は慎重に質問を重ねるが、男性は言葉少なにうなずくだけで、具体的なことは何も語らない。
「昨日、帳場で何をしていたんですか?」
「……特に、何も」
「旅館のことですか?」
「……そうですね、特に」
質問を変えるたびに、男性は視線を少しずつ逸らし、手の指先だけを動かして雪を払う。まるで自分の行動を隠すような微かな仕草が、ピン子の胸に小さな不安を植え付けた。
しばらくの沈黙の後、男性はふと視線を遠くに向ける。ピン子が問いかけると、軽くうなずき、しかし言葉は返さない。結局、彼は何も答えず、雪道を静かに去ってしまった。
「……一体、あの人は何者……」
ピン子は肩を落とす。背後に母・しげ子の姿がちらりと見え、あの騒がしさを思い出す。雪の冷たさと、残る足跡の孤独感が、謎めいた男性の影をさらに濃く感じさせた。
心の中で、追いかけるべきか迷うが、答えは得られないまま——ピン子は一度、謎の影を追うことを諦めた。
その数時間後、旅館のロビーには再び警察が姿を現した。
山崎巡査を先頭に、二人の若い警官が足早に入ってくる。彼らの表情は冷静だが、その声色には「結論を出しに来た」という確信めいた響きがあった。
「皆さん、お集まりいただけますか」
山崎が手帳を片手に、従業員と宿泊客を見渡す。ロビーの空気が一気に張り詰める。
板前の木村、カメラマンの高梨、仲居たち、ピン子も他の人たちと共に加わる。そして少し離れたところに立つピン子の母・しげ子も視線を巡らせる。しげ子はいつも通り、興味津々という体でぴン子たちの様子を窺っていた。
「まず、昨夜の件についてですが——」
山崎の声は落ち着いていた。
「現場の足跡、雪の状態、そして遺留物を確認しました。その結果……熊による事故の可能性が極めて高いと判断しました。」
ざわ……と小さなどよめきが起こる。
ピン子は思わず身を乗り出した。
「熊……ですって?」
彼女の声は思ったよりも大きく響いた。
山崎がこちらを向き、やや困ったようにうなずく。
「はい。雪の上には獣の足跡が複数残っていました。加えて、被害者の遺体の損傷の形状が——」
「でも!」ピン子は一歩踏み出した。「あの夜、露天風呂の近くで人の影を見たんです。熊じゃありません、人間です!」
ロビーの視線が一斉に彼女に集まる。
山崎はため息をつき、静かに首を振った。
「証拠というのは、見た目よりも冷たいものなんです。今のところ、人為的な痕跡は見つかっていません。」
——そんなはずない。
ピン子の胸の奥で、反発の火が燃え上がる。
帳場で見たあの男。露天風呂の湯気の向こうに見えた影。
あれは絶対に、人間だった。
そのとき、山崎の視線が一瞬玄関の方へ向く。
ピン子も釣られてそちらを見ると、あの男——昨日帳場にいた、謎の30代の男性が立っていた。
口数は少なく、表情も読み取れない。
山崎が近づき、彼に何かを尋ねている。
しかし男は短く答えるだけで、要領を得ない。
警官たちが数言交わすと、男は軽く会釈して、そのままロビーを後にした。
ピン子の心臓が跳ねる。
——やっぱりあの人、何か知ってる。
けれど警察は、あっさりと彼を解放してしまった。
「……これで捜査は一段落ですね」
山崎の言葉が、ピン子の耳には遠く響いた。
「熊による不幸な事故として、処理させていただきます」
警察が「熊による事故」と結論づけたあと、重たい沈黙がロビーを包んだ。
やがて、誰からともなくため息が漏れる。
「……まさか、熊だったなんてな」
カメラマンの高梨が、苦笑とも戸惑いともつかぬ声を出す。
「いや、そんなもんが人を……まるで映画だな」
仲居の一人が小さく頷く。
「でも……熊なんて、最近は山のほうでも見かけなかったのに」
木村は無言のまま腕を組み、視線を落としたままだった。
ピン子の目は、その横顔に釘付けになる。
沈黙。
だがその沈黙には、何かを隠しているような重さがあった。
「木村さん、さっきの警察の話……どう思います?」
高梨が遠慮がちに尋ねる。
木村はしばらく黙っていたが、やがてぼそりと口を開いた。
「さぁな。熊がやったってんなら、そうなんだろ」
「でも、あんた……」
「俺に聞くな。俺は料理人だ。山のことなんざ知らねぇよ」
言葉を切り捨てるように言い放つと、木村は包丁を拭いた手ぬぐいを握りしめ、無言で帳場の奥へと歩いていった。
その背中を見送りながら、ピン子の胸にまた不安がよみがえる。
——逃げるようなその足取り。
——まるで、何かを後ろに隠しているみたいじゃない……。
ピン子は唇を噛み、抗議の言葉を飲み込むしかなかった。
警察が去ると、ロビーは一気に静まり返る。
夕暮れ時、ピン子は考えがまとまらず旅館の中をあてもなく歩きまわっていた。
その時、ふとたまたま通り過ぎようとした帳場の奥から、微かに押し殺した声が聞こえた。
女将・絹子の声だ。
「……だから、これ以上は……お願い、もうやめて」
「……俺だって言いたくねぇんだよ。でも、やってしまったものはやってしまったんだよ」
ピン子は息を呑み、帳場のそばの柱の陰に身を寄せた。
板前・木村の声だった。
絹子は震えるような声で言葉を返す。
「お金なら出すわ。でも、そのことだけは……」
「へぇ……“そのこと”ね。やっぱり、認めるんだ」
木村の声が低く笑う。
ピン子の全身に鳥肌が立つ。
——そのこと……? いったい何を……?
絹子のすすり泣く声が聞こえ、木村の足音が遠ざかる。
静寂の中に、絹子の嗚咽だけが残った。
ピン子は息を止めたまま、頭の中で断片を繋ぎ合わせる。
——そうか。木村は絹子を脅している。
——そして“そのこと”というのは……小暮さんの死。
木村は小暮殺しの犯人だ。
それを絹子が隠そうとしている——。
殺人があったことが公になれば旅館の存続にも影響しかねない......間違いない...
雪の音だけが聞こえる廊下で、ピン子は静かに拳を握りしめた。
「……見てなさい。必ず、あんたの尻尾をつかんでやる」
ロビーの窓の外では、吹雪が強くなり、木々が軋む音が響いていた。
その音はまるで、まだ終わらぬ真実が雪の奥で息を潜めているかのようだった。
——事件は終わっていない。
——木村こそが、真相の中心にいる。
ピン子の目が、鋭く光った。
吹雪の夜、旅館に不穏な影が忍び寄る。
小暮忠志の死の真相をめぐり、板前・木村と女将・絹子の関係が明らかに。
ピン子は誰も知らない秘密を偶然耳にしてしまう。
果たして小暮を殺したのは誰なのか——。
そして、銀河・流星の滝の上で待つ最後の対決とは。
次回、第5話――真実が雪の闇を切り裂く。
登場人物紹介
Kallsson・泉 ピン子 スウェーデンからの帰国後、母に連れられて北海道・層雲峡の温泉旅館へ向かう物語の主人公。物静かな性格。
泉 しげ子 ピン子の母。奔放で思い立ったら即行動の派手な女性で、娘を連れ出し「事件」に遭遇することを期待している。
野々村 絹代 層雲峡温泉「熊乃湯」の女将。落ち着いた所作を持つが、その瞳の奥には何か静かな暗い波を秘めている。
木村「熊乃湯」に勤める板前。腕は立つが、気難しいと言われる。
小暮 忠志 旅館に宿泊している登山ガイドの男性。日に焼けた顔に風の跡のような皺を持つ。
高梨 祐介 旅館に宿泊しているフリーのカメラマンの男性。冬の雪景色を撮影するため宿を訪れた。
田所 トメ子 ピン子の隣人であり友人。メッセージアプリを通じてピン子の状況を知る。
山崎巡査部長 事件発生後、旅館に駆けつけた層雲峡駐在所の警官。
仲居(女中・春江など)旅館「熊乃湯」の従業員。宿泊客への案内や給仕を担当する。
帳場で見かけた謎の男性 旅館の帳場付近でたびたび見かけられる30代くらいの物静かな男性。
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