「明智小誤郎と夢幻の美女」 ― 夢幻を纏う殺人者 ― 第4話
第4話 夢幻の錯覚
セーヌ川から少し離れた郊外。
石垣に囲まれた小高い丘の上に、
チハルーナのもうひとつのアトリエがあった。
朝の光が差し込む窓際には、乾きかけた絵の具の匂いと、
昨夜から続く疲労の空気が漂っている。
白い壁にかけられた未完成の絵。
そこには――影のように重なった二つの人影が描かれていた。
チハルーナは筆を握ったまま、しばらく動かなかった。
外からは小鳥の声、遠くの鐘の音。
しかしその静けさの中に、どこか不自然な緊張があった。
「……また、誰かが」
小さくつぶやいたその時、
背後の扉がノックされた。
「Chiharuna, c’est Henri. Puis-je entrer ?(チハルーナ、アンリだ。入っていいか?)」
ゆっくり扉が開き、画商アンリ・デュヴァルが姿を見せた。
黒いコートの襟を立て、疲れ切った顔。
だがその瞳だけは、妙に冴えていた。
「Tout Paris parle de ces morts… et toi, tu es toujours au centre.(この事件、パリ中の噂になってる……そして、君はいつも中心にいる)」
チハルーナは筆を置き、微笑もうとするが、頬が引きつった。
「Je ne veux pas… mais je ne peux pas m’en éloigner.(望んでいないわ……でも、逃れられないの)」
アンリはゆっくりとアトリエの中を歩いた。
その足取りは静かだが、妙に一定のリズムを刻んでいる。
机の上のスケッチ、破れたメモ、そして封の切られていない小包。
宛名は――“Mitsuko Kamakura(鎌倉光子)”。
アンリの指が、その封筒の端をなぞった。
その仕草は、確認ではなく――“探っている”ようだった。
「Une amie du Japon ?(日本の友人か?)」
チハルーナは小さくうなずいた。
「ええ……唯一、私のことを“普通の人間”として見てくれる人」
アンリはしばし黙り、視線を逸らす。
だがその目は、机の端――電源ケーブルの束へと無意識に戻っていく。
金属の反射が、彼の眼鏡のレンズに一瞬きらりと映った。
「Mais… les autres te voient autrement. Certains disent que tu… portes la mort.(だが……他の人間は違う。君が“死を運ぶ”とまで言う者もいる)」
チハルーナは静かに笑った。
「じゃあ、私が死神なのね」
「Non !(違う!)」
アンリは思わず声を上げた。
だがその声はどこか張りつめていて、
まるで“自分に言い聞かせている”ようでもあった。
「Je veux seulement te protéger…(ただ、君を守りたいだけなんだ)」
一瞬、アトリエの空気が凍る。
チハルーナは視線を落とし、
机の上の小包に触れた。
封の隙間から、薄い銀色のケーブルの先端が覗いている。
アンリの目が、その一瞬を見逃さなかった。
そして――
彼は無意識のように、そっと手を伸ばし、
そのケーブルを確認するように軽く持ち上げた。
「 C’est quoi ? ……(それは?)」
「Un simple câble d'alimentation. (ただの照明のコードよ)」
チハルーナの声は淡々としていた。
しかし、その手はわずかに震えていた。
アンリはしばし無言のまま立ち尽くし、
やがて小さく笑って、ケーブルを指先から離した。
「Alors… il faut toujours de la lumière, même dans les ombres.(なら……影の中にも、光は必要だ)」
その言葉とともに、
彼は部屋の電灯スイッチを一度だけ、静かに押した。
照明が一瞬だけちらつく。
まるで、何かの“回路”が確かに通電したように。
――アンリの瞳が、その光を反射して、わずかに光った。
そして、彼はゆっくりと扉へ向かい、
「Je repasserai demain.(また明日来る)」とだけ言い残して去っていった。
静寂。
チハルーナはしばらくその場を動けずにいた。
窓の外では風が木々を揺らしている。
だが――その音の下に、別の微かな「音」が混じっていた。
ジ……ジジッ……。
照明の根元から、小さな電気ノイズのような音。
まるで誰かが、どこかからスイッチを入れ直したかのように。
チハルーナはゆっくりと顔を上げた。
部屋の隅のランプが、ほんのわずかに――
彼女の知らぬリズムで、明滅していた。
モンマルトル・警察署。
ラヴォワ警部は机の上に散らばる写真を前に腕を組んでいた。
フランソワ・ルブラン、ジャン=ピエール・ロワール――どちらもチハルーナの知人。
死因は異なるが、現場の状況は似ていた。
「Deux artistes morts, même méthode… mais aucun lien matériel.
(画家が二人、手口は同じ……だが物的なつながりはない)」
ミシェル刑事がうなずく。
「Et chaque fois, un message envoyé : Maintenant.
(そして毎回、“今だ”というメッセージが届く)」
ラヴォワは写真を見つめたまま呟いた。
「Ce mot… quelqu’un le déclenche depuis ici.
(この言葉……誰かがここで送っている)」
その瞬間――
署内の扉が激しく開き、
焼き立ての匂いがどっと流れ込んだ。
「皆さん、朗報です!!」
大量の紙袋を抱えた明智小誤郎が、
パン屋の配送員のように登場した。
「皆さん! パリ名物の〝影クロワッサン〟を買ってきましたよ!」
ミシェル刑事が驚愕する。
「Monsieur Akechi… pourquoi vous apportez… autant de croissants ?
(明智さん……なんでそんなにクロワッサンを?)」
「捜査には“血糖値の閃き”が必要なのです!」
明智は胸を張り、
机にクロワッサンを次々と積み上げた。
(軽く山のようになった)
ラヴォワ警部が呆れ顔で言う。
「Monsieur Akechi… ceci n’est pas une boulangerie.
(明智さん……ここはパン屋ではない)」
だが明智は気にせず、
クロワッサンの山に指で影を落としながら言った。
「影です、警部! 影の角度が重要なのです!」
ミシェル刑事は頭を抱える。
「Quoi encore ?!(また何だって?)」
明智は机の上の写真と、窓から差す光を指差し、
異様な熱量で叫ぶ。
「それだ! つまり犯人は――
“光速通信を操る芸術家”です!」
ラヴォワ警部は冷ややかに言った。
「Monsieur Akechi… vous êtes un poète, pas un enquêteur.
(明智さん……あなたは詩人であって、捜査官ではない)」
だが、そのときミシェルが声を上げる。
「Chef ! Une autre alerte à Saint-Cloud.
(警部! サンクルーで新たな通報が!)」
ラヴォワ警部は立ち上がった。
同時に――
明智もサンクルーの名を聞いた瞬間、
紙袋を落とし、クロワッサンが床に散った。
「……サンクルー!?
そこは……たしかチハルーナさんの……アトリエ……!」
顔から血の気が引き、
明智は初めて“推理ではない真の不安”を目に宿した。
サンクルーの別宅アトリエ
丘を覆う霧が、まるで静かに揺れる白い布のように立ち込める中、
チハルーナの別宅アトリエから細い煙が立ちのぼっていた。
通報を受けたラヴォワ警部とミシェル刑事、
そしてなぜかクロワッサンの紙袋を抱えたまま同行してしまった明智小誤郎が、
警官たちとともに急いで駆けつける。
「Chiharuna ! Vous êtes là ?!(チハルーナ! 中にいるのか?!)」
ラヴォワ警部が扉を叩き、警官たちに指示を飛ばす。
木製の重い扉が破られ、煙が押し出されるようにあふれ返った。
中から、かすかな声が返る。
「Je suis lá... ça va …… (ここにいます……大丈夫……)」
三人は同時に安堵の息をもらした。
そして、立ち込める煙の中――
チハルーナは、まるで絵の中から歩み出てきた人物のように現れた。
焦げた空気の中なのに、どこか霧の粒をまとっているかのような儚い佇まい。
白いシャツには煤がうっすらついているが、
その身のこなしは異様なほど落ち着いていた。
ミシェル刑事が慌てて駆け寄る。
「Mademoiselle, vous n’êtes pas blessée ?(怪我はありませんか?)」
微笑むチハルーナ。
その顔は――危険な状況にいたはずなのに、
妙に静かで現実感が薄い。
「Ça va ... juste un peu surprise. (大丈夫……ほんの少し、驚いただけ)」
その声は、燃え跡の匂いの中でもどこか淡く、
まるで“ここではないどこか”から届いた音のようだった。
明智はクロワッサンを落としそうになりながら叫んだ。
「ち、チハルーナさんっ! 無事で……よかった……!」
彼女は小さく頷いた。
その動きすら、まるでスローモーションのように緩やかで、
見る者に“この女性は本当に現実にいるのだろうか”という錯覚を与えた。
炎はすでにほとんど消えていた。
だがアトリエ内部には、倒れた照明器具、焼け焦げた金属片、
崩れた三脚や落下した重りの破片が散乱している。
部屋の中央には、割れたガラス越しに小さく光るスマートフォン。
そこでは――メールの通知音が、火事の後の静けさの中で虚しく鳴り続けていた。
画面にはただ一言。
「Maintenant.(今だ)」
ラヴォワ警部が低くつぶやく。
「Encore… toujours le même mot.(まただ……いつも同じ言葉)」
ミシェル刑事は煙の中で唇を引き結んだ。
「Il semblerait que quelqu'un ait programmé l'activation de l'appareil. (誰かが、タイミングを合わせて装置を作動させたように見えます……)」
明智はスマホの画面を覗き込み、
突然、目を輝かせて叫ぶ。
「そうか……! 影は海を越えたのです!!」
「越えてません」
と、チハルーナが即座に淡々と突っ込んだ。
だがその声も、やはりどこか遠かった。
そのとき、
アトリエの入口からこちらをじっと見つめる影があった。
アンリ・デュヴァル。
煙をくぐるように現れた彼の姿は、
いつになく険しく、
しかしどこか“感情を抑え込んでいる”ようにも見えた。
「Chiharuna…」
低く絞り出すような声。
警官の一人が訊ねる。
「C’est vous qui avez fait le premier signalement ? (あなたが最初の通報者ですね?)」
アンリはわずかに間を置いて答えた。
「Oui. En venant ici, j’ai vu de la fumée.……(はい。ここに向かっていたら、煙が見えたので)」
ただ、短い返事のわりに、
その手は強く握りしめられ、
袖口には灰が付着していた。
何かを隠しているのか、
あるいは恐怖を押し殺しているのか――
判別がつかない。
ラヴォワ警部は一瞬だけ彼を観察し、
言葉を飲み込んだ。
チハルーナは気づかぬふうに目を伏せたが、
その指先がかすかに震えた。
崩れた照明器具の側に落ちていた金属片を拾い、
明智は突然、天井を睨みつけた。
「わかりましたよ……!」
「Quoi? (何だ)」ラヴォワが眉をひそめる。
明智は金属片を掲げ、劇的に言い放った。
「これは“霧の中で生まれた影の罠”です!」
「Qu’est-ce qu’il dit encore……? (彼はまた何を言ってるんだ?)」ミシェル刑事が呆れる。
「そうです! 霧は光を乱反射させる……つまり、
影が幾重にも重なる状態が生まれる……!
その“偽りの影”を計算できる者だけが、
この照明落下トリックを作動できるのです!」
「…Quoi…? Je ne comprends pas…(…え、何…?分からない…)」
「芸術家です! とりわけ、光と影を操る画商や照明の専門家なら!」
「Hein…?(え…?)」
ラヴォワは冷たい目で彼を見つめ、困惑を隠さず呟いた。
「Vous n’êtes pas en train de soupçonner Monsieur Henri Duval, j’espère…? (まさかアンリ・デュヴァル氏を疑っているのでは…?)」
明智はその言葉も理解できない様子で、ただ力強く頷いた。
チハルーナは、
明智の奇天烈な推理にも、
アンリの険しい表情にも何も言わず、
ただ炎の後の静寂を見つめていた。
彼女の髪に残る灰が、
霧の光の中できらりと光る。
まるで――
この混沌の中でもなお、
現実離れした“夢幻の美女”そのものであった。
明智の身振り手振りに警察は完全に翻弄され、フランス語で困惑の声を漏らすばかりだった。
「Mais… c’est… incompréhensible…(でも…これは…理解できない…)」
ラヴォワはため息をつき、手元の証拠写真に目を落とす。
天井から落ちたはずの照明の金具、壁に残るわずかな影の痕跡、そして現場に散らばる奇妙な装置――どれも通常の現象では説明がつかない。
明智は息を整え、冷静さを取り戻した。
しかし彼の視線は、現場の奥に置かれたもう一つの装置に向かう。
「ここに……もう一つの装置があります。見逃してはいけません…!」
警察は目を丸くし、再び何も理解できないまま固まる。
ラヴォワは眉をひそめ、無言で装置を覗き込む。
明智は現場の奥に置かれた奇妙な装置に歩み寄り、慎重に手を伸ばした。
両手を空中で交差させ、指で光の軌道をなぞるように動かす。
「この装置の仕組みはこうです……光と影の干渉を利用し、
見えない力を誘導する……!」
フランス警察は首を傾げ、唖然とした表情のまま立ちすくむ。
彼らには何が起きているのか理解できず、明智のジェスチャーもただの奇妙な動きにしか見えない。
「Mais… c’est impossible…(でも…ありえない…)」
その瞬間、チハルーナは背後で肩をすくめ、空気の微かな揺れに気づく。
目には見えないが、確かに“何か”が周囲に漂っている――その存在感が、肌を通して伝わってきた。
「……な、何かが……ここにいる……?」
明智は装置の周囲を指差し、まるで誰かにだけ説明するかのように手を動かす。
装置の上に残る影は、現実と幻想の境界を揺らすかのように、静かに揺れた。
フランス警察は依然として無言で立ちすくむ。
彼らには理解できないが、チハルーナだけが確かに感じた。
その“見えない何か”は、静かに、しかし確実に彼女の周囲を取り巻いている。
明智は微かに微笑み、低い声でつぶやいた。
「この装置……犯人の意図も、周囲に潜む力も、全てここで計算できるのです……。」
ラヴォワは眉をひそめ、装置を凝視しながら静かに言った。
「Ça… c’est au-delà de notre compréhension…(これは…我々の理解を超えている…)」
チハルーナは震える手で肩を抱え、明智の説明にも警察の困惑にも目を向けられず、ただ“見えない何か”の存在を感じ取るしかなかった。
事件の核心は、言葉や常識を超えたところにある――その事実だけが、確かに彼女の心を縛った。
明智は装置を前に、深く息をつきながら周囲を見渡した。
フランス警察は依然として言葉を理解できず、ただ困惑の表情を浮かべるばかり。
チハルーナは肩をすくめ、微かに震えながらも、その目は装置に釘付けだった。
「ここで得られた情報は、すべて次の行動へつながります……。
しかし、慎重でなければなりません。」
ラヴォワは無言で装置を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「Nous devons nous préparer… cela ne fait que commencer.(準備をしておくべきだ…これはまだ始まりにすぎない)」
チハルーナは肩越しに明智を見つめ、心の中で自分に言い聞かせる。
“何か”は確かにここに存在している――目に見えない力が、次の瞬間を待っているかのように。
深夜の現場は静まり返り、影と光だけが微かに揺れる。
明智の計算と、警察の理解不能、そしてチハルーナの恐怖――
すべてが重なったその空間に、次なる事件の気配が忍び寄っていた。
その気配を、誰も、まだはっきりとは掴めないまま――
第五話・最終話「影の迷宮」予告
現場に残された奇妙な装置。
明智の計算と警察の困惑、チハルーナの不安――すべてが絡み合い、見えない力の存在を示していた。
次なる手がかりは、フランスの街中で静かに、しかし確実に動き始める。
影は深まり、迷宮のように入り組んだ謎が、新たな展開を呼び込む――。
誰もまだ気づいていない、真実の片鱗が、今、静かにその姿を現す。
登場人物紹介
明智小誤郎(あけち・こごろう)
自称探偵。真面目で情熱的だが、常に推理が的外れ。偶然に助けられて真相に辿り着くことが多い。芸術的感性を磨くためというよく分からない理由でフランスに滞在中。
中田チハルーナ(なかた・チハルーナ)
妖艶で神秘的な雰囲気をまとう画家。日本人だが、自分をフランス人とのハーフと語る。フランス語混じりの日本語を話すなど、どこか現実離れした印象を与える。
鎌倉光子(かまくら・みつこ)
チハルーナの日本時代からの友人。日本に住んでおり、ビデオ通話などで彼女と頻繁に連絡を取っている。穏やかで理知的な人物。
アンリ・デュヴァル
フランスの著名な画商。チハルーナの作品を高く評価し、商業的にも売り出そうとしている。プライドが高く、少々傲慢な性格。
カミーユ
チハルーナの弟子で、まだ若い女性画家。純粋で努力家だが、チハルーナへの憧れが強すぎるところがある。
マドレーヌ
モンマルトルの画廊オーナー。華やかで社交的な女性。チハルーナの才能をいち早く見抜き、展覧会を開こうと奔走していた。
ラヴォワ警部
パリ警察の警部。理知的で冷静な現実主義者。明智の奇抜な推理に振り回されつつも、彼の奇行をある程度は許容している。
アラン
チハルーナのアトリエの照明技師。電気設備に詳しく、誠実な性格。アトリエ周辺の機材整備などを担当している。
ベルネ署長
パリ警視庁の上司にあたる人物。強面で短気。明智を「観光探偵」と呼び、捜査現場に顔を出すたびに眉をひそめる。
ミシェル刑事
ラヴォワ警部の部下。観察眼が鋭く、地道な聞き込みを得意とする。明智の言動を密かに面白がっている節がある。
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