『鎌鼬のいたずら――金田一ポン助霊怪事件帖』 風車が呼んだ風神の逆鱗~第壱章
鎌鼬(かまいたち)
鎌鼬は日本の民間伝承に登場する妖怪で、風の中に現れるとされる。主に突風の際に人を切るとされ、皮膚に小さな傷を残すが、血はほとんど出ず、痛みも遅れて感じることが多い。
地方によって伝承の内容は異なるが、一般的には鼬(いたち)のような小さな動物の姿で描かれることが多い。信州や東北の一部では、三匹一組で行動し、最初の一匹が人を転ばせ、二匹目が刃で傷つけ、三匹目が傷の痛みを和らげる、といった話が伝わる。
鎌鼬は、つむじ風や旋風などの自然現象を妖怪として擬人化した存在とも考えられている。風とともに現れ、風とともに消える、目に見えぬ存在として人々に恐れられてきた。
■ 登場人物
金田一ポン助(治田笑男)
40代後半の自称霊媒師。どこか人を食ったような態度だが、鋭い観察眼を持つ。
「幽霊の正体は、だいたい退屈した人間ですよ」とよく口にする。
矢崎美鶴
新聞記者。発電計画と村の対立を取材するために同行。
最初はポン助の胡散臭さに辟易するが、次第にその奇妙な洞察に惹かれていく。
沢渡庄三(村長)
風ノ谷村の長。外の力を拒み、風力発電計画に猛反対。
村の古い祠の封印を守っており、「風は人の力で縛るな」が口癖。
村のためを思っているが、頑固さゆえに周囲と対立する。
黒岩貞次郎(医師)
村の唯一の医師。かつて都市部で研究職にあったが挫折し、風ノ谷に流れ着いた。
冷静沈着で、村人からは「理性的な都会の人」として頼りにされている。
柿沼亮介
発電事業の現場監督。理屈っぽく、村人を軽んじる発言で敵を作る。
第1の犠牲者。
祠守り・老婆タツ
村に伝わる祠を守る年老いた巫女。
「風の神を怒らせてはならぬ」と呪文のように唱える。
ポン助を“風を呼ぶ男”と恐れる。
沢渡清乃
村長の孫娘(10代後半)。
幼い頃から“風の声が聞こえる”と語る不思議な少女。
村人たちは彼女を“風の巫女の生まれ変わり”と呼び、避けている。
物語を通じてポン助に心を開き、風の異変を察知するキーパーソンとなる。
第壱章:風の封じ村
谷間にかすかな光が差し込む。
木々の間を吹き抜ける風は、湿った土の匂いを運び、落葉を攫っては踊らせる。
遠くの山肌は霧に溶け込み、影の輪郭すら定かではない。
空気は重く、息を吸い込むたびに冷たさが胸に染みた。
金田一ポン助は、傘もささずに小道を歩いていた。
中肉中背、少し前屈みに歩く姿。頭にはぼさぼさの髪、薄汚れたコート。
だがその目は澄んでいて、何かを探るかのように周囲をくるくると見渡す。
「……ふむ、これが風ノ谷村か……なかなか侮れん谷ですな」
と、独り言をぽつり。声の端には軽い笑いが混じる。
飄々としているのか、本気なのか、誰にも判断できない微妙な言い回しだ。
一歩一歩、落葉を踏む音が谷にこだまする。
ポン助は足元を見ながら、時折手で空気を撫でるような仕草をする。
「風を読む、とでも申しましょうか。ほほほ、読めるかどうかは神のみぞ知る……」
この男に同行するのは、矢崎美鶴。
美鶴は颯爽とした佇まいで、メモ帳とペンを片手に歩く。
目は鋭く、眉は吊り上がっている。
眉間の皺が、彼女の性格――現実主義で、感情より理屈を重んじる――を物語る。
ポン助の冗談に、眉をひそめ、唇を一文字に閉じる。
「……本当に、この人は冗談を言っているんでしょうか。それとも本気?」
そう呟きながらも、カメラバッグを肩にかけ、彼を追いかける足取りは確かだ。
谷の奥へ進むにつれ、風は次第に冷たく鋭くなった。
枝葉を切る音、岩肌を這う風のうなり、霧に反響する微かな笑い声……
美鶴は身をすくめる。
「……怖い、というより……不気味ですね……」
ポン助は振り返りもせず、くすくす笑う。
「ふふふ……恐怖とは、観察の前座にすぎませんよ。ほら、目を凝らすのです、風を、空気を、音を……」
その言葉には何か底知れぬ余裕があった。
読む者には、まるで風そのものを操っているかのように見える。
谷の道は細く、両側には苔むした石垣と、古い木造の家屋が寄り添う。
崩れかけた吊り橋を渡ると、遠くの小屋の窓が、霧の中で微かに光った。
その光は、村人がまだ眠らずに起きている証拠であり、
同時にこの谷の隔絶された時間を象徴していた。
「……なるほどなぁ……村は、外界から隔てられ、風に守られている……」
ポン助は小さな声でつぶやき、霧に消え入りそうな笑いを漏らした。
美鶴は肩をすくめ、目を細めて谷を見つめる。
風はまた、枝を切るような鋭い音を立てた。
その刹那、どこからともなく、かすかな――くすくすと笑う声が混ざった気がした。
ポン助は手をひらりと振る。
「ふふふ……ようこそ、風ノ谷村。さあ、どんな悪戯が待っているやら……」
谷は深く、霧は濃く、風は止むことなく、二人を迎え入れた。
谷底に落ちる川の音、岩肌に叩きつける風の音……。
その中で、かすかに――人の声のような、しかし誰のものでもない笑い声が混ざった。
ポン助はふと手の甲に目をやる。薄い線が走っていた。血は出ていない。
「……ご挨拶かねぇ、これは。風の子供たちのいたずらですよ」
霧の中から、村人の声がかすかに聞こえた。
「……風の中に爪の音がする晩は、外に出るな……」
「鎌鼬……あいつがまた、来た……」
囁きは霧に吸い込まれ、地面の落葉を揺らすだけだった。
村は谷の奥にひっそりと張り付いていた。木造の家屋、苔むした石垣、崩れかけの吊り橋。
「沢渡」という標識が出ている家の前を通り過ぎる。この村の長、沢渡庄三の家に違いない。
その家の前を通り過ぎると、古い木の扉の向こうから低い声が聞こえた。
「風を縛るな……さもなくば祟りが……」
だがその声は、谷に吸い込まれると同時に、誰の声か判然としなくなった。
風の谷に、夜が深く沈んでいった。
谷の道を進むにつれ、霧はさらに濃くなり、視界は二、三歩先までしか届かなくなった。
木造の小屋の軒先に吊るされた風鈴が、風に揺れて細い金属音を奏でる。
その音は、風が人の血を切り裂くような、どこかぞっとする響きだった。
「……村、思ったより人が少ないですね」
美鶴が声をひそめる。
「ええ、外部の人間はほとんど来ないらしいですし、ここに住む者も偏屈で……」
ポン助はふと立ち止まり、手のひらを風に翳した。
「偏屈……うむ、面白い。村人の性格は、土地の風に育まれるものですからね。ふふふ、観察が楽しみですな」
彼の声には、冗談と本気の境界が存在せず、聞く者の心を微かにざわつかせる。
谷間の小道を抜け、ようやく辿り着いた木造の宿は、苔むした瓦屋根とひび割れた土壁を持つ古い建物だった。
小さな土間に足を踏み入れると、湿った木の匂いと、古い藁の香りが混じった独特の気配が立ち込める。
ポン助は荷車を押し込み、傾いた梁を見上げながら小さく笑った。
「ふむ、これは風の谷にふさわしい宿ですな。風の囁きも程よく漏れ聞こえる……」
美鶴は荷物を整理しながら、机の上に新聞や資料を広げた。
「……本当に、この村に来るのは初めてですけど、外界から隔絶されているせいか、すべてが時間の流れを遅く感じます」
ポン助は壁の隅に置かれた小さな燭台の炎を見つめ、指先で微かに揺らす。
「観察するには最高の舞台ですな。ふふふ、谷の空気と人の気配、どちらも逃さず吸収できます」
しばらくすると、宿の戸を軽く叩く音がした。
「外からお客様ですか?」
宿の老婆が顔を覗かせる。
戸の隙間から覗いた老婆は、冬枯れの枝のように細い腕をしていた。白髪は無造作にまとめられ、煤けた髪の間からのぞく瞳は、年を重ねた者だけが持つ静かな光を湛えている。皺の刻まれた頬には、長年の風に晒された土地の記憶が染みついていた。
「……ああ、村に来た者は久しい。あんたたちも、風を知る覚悟を持っておいでか」
その声にポン助は軽く頭を下げた。
「もちろんです、風の声を聞くのが仕事ですからねぇ」
美鶴は眉を寄せ、心の中で「本当に聞こえるんでしょうか、この人……」と呟く。
荷を下ろし、部屋に荷物を整理していると、外で誰かの声が聞こえてきた。
宿の窓の隙間からそっと外をのぞいていて見ると...
体格の良い男が図面を手に声を荒げ、他の村人たちと言い争っている。
「こんな谷に風車を建てるだと!? 無理に決まってる!」
窓の向こう、老村人が首を振り、低い声で返した。
「風の怒りを知らぬか……あの祠を見ろ、封印の上に何かが眠っておるのだ。風を縛れば祟りが起きる」
ポン助は窓辺に近づき、外のやり取りを静かに見守る。
しばらくして、老村人は宿に入ってきて入り口の小上がりに腰を下ろした。 「この谷の祠には、古い封印がある。人間の手で風を縛れば、必ず祟りが返るのだ」 ポン助は膝をつき、耳を澄ます。
「ふむ、科学と伝承が交差する地点に事件の香り……いや、これはまだ序章ですな。ほほほ」
美鶴は窓を開け、風が室内に入り込むのを感じた。
カーテンが揺れ、燭台の炎も揺らぐ。
「……外の風、妙に鋭いですね」
そのとき、かすかなくすくすという笑い声が、霧と共に室内に忍び込んだような気がした。
ポン助は風を手で撫でるようにし、微笑む。
「……ほほほ、風の子供たちのご挨拶でしょうな。谷のいたずらが、血の匂いと一緒に届くこともありますから」
そのとき、障子の向こうでかすかな衣擦れの音がした。
続いて、まだ十代と思しき少女がそっと顔をのぞかせる。
薄明かりの中、細い指で髪を押さえながら、怯えるような、それでいて何かを見透かすような瞳をしていた。
老村人が振り返り、彼女を紹介する。
「こいつは沢渡清乃。村長の孫でな、子どものころから“風の声が聞こえる”と言っておる。村じゃ“風の巫女の生まれ変わり”なんて呼ぶやつもおるくらいでな」
ポン助は軽く頭を下げた。
「なるほど……それはまた、頼もしい案内人にお会いしましたな」
清乃は小さく会釈し、視線を床に落とした。
そして、障子の隙間から外を見つめるようにして、静かに呟く。
「……風が泣いてる……血の匂いがする……」
その声は小さく、室内の誰にも届くか届かないかのかすかなものだった。
しかし、確かに室内の空気が一瞬ざわめいた。
ポン助は微かに笑み、清乃をちらりと見て頷く。
「……なるほど、風の声を聞く者がいるようですな。ふふふ、観察が楽しみです」
燭台の炎が揺れ、窓の外の風が軋む。
室内に忍び込む霧の気配は、まるで見えない刃が壁や床をなぞるかのようだった。
その場にいたのは、がっしりとした体格の男――柿沼亮介である。
都市の開発会社から派遣され、この谷に風力発電の建設計画を進めるためにやってきた。
彼の前には村の地形図と風向解析の図面が広げられている。
だが、村人たちは一様に顔を曇らせ、その紙の上に描かれた「風車」の印を忌々しげに睨んでいた。
「風を閉じ込めようなんて無茶だ! 神が怒るに決まっておる!」
こう叫び卓を叩いたのは、この村の老村長・沢渡である。
「計画は中止だ、柿沼さん。これ以上、谷を騒がせんでくれ!」
しかし一方で、村の外れでは誰かが密かに工事を進めているという噂が広まっていた。
夜毎に響く杭打ちの音、山肌に立つ白い影――それらが“風の祟り”を呼び起こしたのだと、村人たちは恐れていた。
柿沼はため息をつき、頭をかいた。
「科学で説明できることですよ、風も自然のエネルギーも……」
そう言いかけた時だった。
開け放たれた宿の扉から、突風が吹き込んだ。
燭台の炎が大きく揺らめき、谷の夜が唸る。
柿沼の手元にあった図面がひらりと舞い上がり、紙の端が鋭く裂けた。
「うわっ!」
彼が手を伸ばすよりも先に、風が紙をさらい、霧の中へ運んでいった。
ポン助は手を軽く振り、霧を撫でるようにして言った。
「ほほほ……ご挨拶ですよ、風の子供たちのいたずらですな」
美鶴は眉を寄せ、息を呑む。
「……風に、血の匂いが混じっている……?」
その言葉に、柿沼の顔色が微かに変わる。
「何だ……いや、気のせいか……」
しかし、次の瞬間、柿沼の体がふらりと揺れ、谷の石畳に膝をついた。
「……う、……」
声は途中で途切れた。
美鶴が駆け寄ろうと手を伸ばすと、風が突き刺すように吹き、霧が二人の視界を覆った。
その中で、柿沼の姿は小さく、静かに揺れ、血の匂いだけが濃密に立ち込めた。
風がまた、くすくすと笑った。
「……なんだ、これ……」
美鶴の声は震え、思わず後ろに一歩退く。
やがて風はぴたりと止み、霧が薄れていく。
柿沼は一瞬意識が朦朧としたが、すぐに取り戻した。
外傷は見当たらなかった。
「とにかく、今夜はもう解散だ」
老村長・沢渡の声が低く響く。
「この谷では、風の怒りに逆らうと命を落とす。……みんな、外を歩くな」
ポン助は頷き、美鶴と清乃を連れて宿へ戻った。
夜の谷は不気味なほど静まり返り、ただどこかで風鈴のような音が鳴っていた。
——翌朝。
柿沼亮介は村外れの小道で見つかった。
倒れている姿はまるで眠っているかのようだったが、顔色は白く、体からは一滴の血も流れていなかった。
傷はどこにもない。
けれど、その胸元の衣だけが、風に裂かれたように細く裂けていた。
風が、また谷を駆け抜けた。
その朝、谷は一面の薄霧に包まれていた。
夜の冷気が残る石畳の上を、誰かの叫び声が裂いた。
「――人が死んでる!」
駆けつけた村人たちが囲む中、倒れていたのは柿沼亮介だった。
村外れの小道、風車予定地へ続く獣道の途中。
顔は青白く、まるで血の気がすべて抜け落ちたようだ。
服に血の跡はない。
だが、胸元の布が細く裂けており、まるで何か鋭い“風の刃”が通り抜けたように見えた。
ポン助は膝をつき、柿沼の顔に手をかざす。
「……冷たいが、苦しんだ様子はない。眠るようだな」
霧の匂いを嗅ぎながら、彼は静かに続けた。
「だが、血がない。外傷もないのに、血だけが……」
美鶴が震える声で問う。
「つまり……“風に血を吸われた”とでも?」
ポン助は目を細め、霧の向こうに広がる谷を見渡した。
「昨夜の風――あれは、ただの風じゃなかった。何かが呼吸しておる。風そのものが、命を奪うような……」
そのとき、霧の中から足音がした。
清乃が、白い息を吐きながら歩いてくる。
彼女の頬は蒼白で、瞳はどこか遠くを見ていた。
「……聞こえるの」
か細い声で彼女が呟く。
「風が泣いてる。……“返せ”って」
美鶴が息を呑み、ポン助が顔を上げた。
「返せ? 何をだい、清乃殿」
清乃は首を横に振り、耳を塞ぐようにしてつぶやいた。
「わからない……でも、風の奥に、誰かがいる。とても古い声……」
その瞬間、木々の枝がざわりと鳴り、霧の中を風が駆け抜けた。
柿沼の裂けた胸元がかすかに揺れ、風の音が、まるで笑い声のように聞こえた。
ポン助は静かに立ち上がり、風の流れる方向を見つめる。
「――どうやら、“封印”の話は、ただの昔話ではなさそうですな」
老村人の一人が震える声で言った。
「……鎌鼬の仕業だ。風の祟りだ……」
ざわめく群衆の中で、村長・沢渡が声を上げた。
「静まれ! このまま晒すわけにはいかん。黒岩先生のところへ運べ!」
*
黒岩貞次郎の診療所は、村の入り口近くにあった。
小さな木造の建物だが、壁には薬瓶が整然と並び、奥には古びた解剖台が置かれている。
彼は五十代半ば、眼鏡の奥の鋭い眼差しが印象的な男だ。
村では珍しく、科学と理屈を信じる人物として知られていた。
柿沼の遺体を前に、黒岩は静かに眉をひそめた。
「外傷は……見当たらん。骨折もない。毒の兆候もない」
彼は手袋をはめ、脈を探り、瞳孔を覗き込む。
「だが……血がないな。失血死のような状態だ。にもかかわらず、どこにも流出の痕跡がない」
「つまり、どういうことです?」と美鶴が問う。
黒岩は小さく息を吐いた。
「わからん。理屈の通らん死に方だ。……血を“抜かれた”としか言いようがない」
その言葉に、沢渡は険しい顔をした。
「この件は村の外には出すな。外の連中に知られたら、計画どころか村そのものが疑われる」
黒岩は一瞬だけ口を開きかけたが、やがて唇を噛んだ。
「……わかりました。記録は残しません。ただし、これは異常です。次があれば、もう黙ってはいられませんよ」
「次など起こらん。起こしてはならんのだ」
沢渡の声が冷たく響いた。
*
夕暮れ、診療所の裏手に穴が掘られた。
村人たちは誰も口を開かず、ただ沈黙のまま、柿沼の亡骸を土に戻した。
風がわずかに吹き抜け、木々がざわめく。
その音はまるで、笑い声のように響いた。
少し離れた場所で、清乃が立ち尽くしていた。
彼女は風の音に耳を澄ませ、かすかに呟く。
「……“返せ”って、また言ってる……」
ポン助はその横顔を見つめ、低く呟いた。
「――風はまだ、終わっていませんな」
翌日、昼を過ぎても谷には薄い霧が残っていた。
宿の縁側で煙管をくゆらせていたポン助は、煙の行方をしばらく目で追ってから立ち上がった。
「風が、まだ落ち着きませんな……。どうにも、血のにおいが消えていない」
彼は美鶴を伴い、黒岩貞次郎の診療所へ向かった。
村の入り口近くにあるその建物は、昨日の出来事がなかったかのように静まり返っている。
扉を開けると、黒岩が机に向かって何やら記録を取っていた。
顔を上げた黒岩が、意外そうに言った。
「おや、治田君じゃないか。わざわざ来たのかね」
ポン助は軽く笑って手を振る。
「いやいや、“金田一ポン助”でございますよ。もう十年ほど前に名を変えましてな」
黒岩は苦笑した。
「変わらんね、君は。相変わらず奇抜な名だ」
ポン助は煙管を指先で転がしながら、診療台の上を指でなぞった。
「……相変わらず、胡散臭い格好をしているな、治田君。」
黒岩が書類から目を上げずに言う。
ポン助は帽子を取って笑った。
「いやいや、金田一ポン助でございます。治田笑男はもう、あっちの学会で成仏しましたんで。」
黒岩の唇がわずかに動いた。
「昔から変わらんな。科学の言葉で説明できぬものばかり追いかけて。」
「そちらこそ、まだ“説明”のために人を診ておられる。……でも風は、説明してほしくないみたいですよ。」
二人の間に、短くも奇妙な静寂が落ちた。
黒岩は視線を逸らし、カルテを閉じる。
「……この村では、理屈より“祟り”のほうが通りがいい。気をつけたまえ。」
「ありがたい忠告ですな。風に噛まれないように気をつけますよ。……それで先生、柿沼の件ですが...」
黒岩は表情を引き締め、机の上のノートを開いた。
「外傷はなかった。骨折も中毒もない。だが血液が消えていた。失血死に近いが、流出も吸収もしていない。
体内から“何か”に抜かれたとしか言いようがない」
美鶴が息を詰めた。
「そんなこと、あり得るんですか……?」
「あり得ん」と黒岩は短く答える。
「だが起きたのだ。理屈の外にある現象としか言いようがない」
ポン助は窓の外を見やり、静かに煙を吐いた。
「理屈の外、ですか。……では、その外に何があるのか、風に聞いてみるしかありませんな」
黒岩はしばし黙り、眼鏡の奥の目を細めた。
「治田……いや、ポン助君。まさか祠へ行くつもりじゃないだろうね」
「まさか。……ただ少し、風と語り合うだけです」
黒岩は苦く笑った。
「昔からそうだ。危ない橋ほど、笑って渡る」
ポン助は肩をすくめた。
「笑うのが性分でして。名前にもそう書いてあるんですよ、“笑男”とね」
霧が外の窓を叩いた。
黒岩はその音に目をやり、低く呟く。
「――今夜は風が騒ぐ。行くなら、気をつけろよ」
ポン助は軽く頭を下げた。
「はい、金田一ポン助。風と喧嘩する覚悟はできております」
窓の外で、遠い風の音が笑い声のように響いた。
黒岩の診療所を後にしたポン助は、宿へ戻る坂道をゆっくりと登っていた。
霧はまだ谷を覆い、木々の間を縫って囁いている。
まるで風そのものが、何かを語りたがっているようだった。
「……治田さん!」
背後から呼ぶ声に振り向くと、美鶴が傘を片手に駆け寄ってくる。
「いやいや、金田一ポン助でございますよ。治田は封印された名でして」
そう軽口を叩くポン助に、美鶴は思わず息をついた。
「封印って、あなたまでそんなことを……」
「ええ、名前にも祟りがつくもんでね」
彼の笑みは薄闇の中に沈み、その眼だけが鋭く光っていた。
風がふと向きを変え、どこからか鈴のような音が響く。
清乃が祠のある山の方を見つめながら、小さく呟いた。
「……風が、呼んでる……」
ポン助はその言葉に目を細めた。
「呼ぶ風、封じられた祠、血を失った死体。さて、次に笑うのは――人か、風か」
谷の底から、低く、くすくすと笑うような風の声が返ってきた。
予告 ――第弐章「祠の唄」
霧深き風ノ谷に、再び血の風が吹く。
封印の祠に刻まれた“人柱”の伝承。
村長の手で密かに修復される祠の石壁、そして老婆タツの警告――
「風は血を求めておる……」
信仰か、科学か、あるいはその狭間か。
金田一ポン助は、風の唄に潜む“人の声”を聞き取ろうとする。
だがその夜、再びひとり、風にさらわれる者が出る――。
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