「明智小誤郎と夢幻の美女」 ― 夢幻を纏う殺人者 ― 第1話

 


登場人物紹介

明智小誤郎(あけち・ごろう)
自称探偵。真面目で情熱的だが、常に推理が的外れ。偶然に助けられて真相に辿り着くことが多い。芸術的感性を磨くためというよく分からない理由でフランスに滞在中。

中田チハルーナ(なかた・チハルーナ)
妖艶で神秘的な雰囲気をまとう画家。日本人だが、自分をフランス人とのハーフと語る。フランス語混じりの日本語を話すなど、どこか現実離れした印象を与える。

鎌倉光子かまくらみつこ
チハルーナの日本時代からの友人。日本に住んでおり、ビデオ通話などで彼女と頻繁に連絡を取っている。穏やかで理知的な人物。

アンリ・デュヴァル
フランスの著名な画商。チハルーナの作品を高く評価し、商業的にも売り出そうとしている。プライドが高く、少々傲慢な性格。

カミーユ
チハルーナの弟子で、まだ若い女性画家。純粋で努力家だが、チハルーナへの憧れが強すぎるところがある。

マドレーヌ
モンマルトルの画廊オーナー。華やかで社交的な女性。チハルーナの才能をいち早く見抜き、展覧会を開こうと奔走していた。

ラヴォワ警部
パリ警察の警部。理知的で冷静な現実主義者。明智の奇抜な推理に振り回されつつも、彼の奇行をある程度は許容している。

アラン
チハルーナのアトリエの照明技師。電気設備に詳しく、誠実な性格。アトリエ周辺の機材整備などを担当している。

ベルネ署長
パリ警視庁の上司にあたる人物。強面で短気。明智を「観光探偵」と呼び、捜査現場に顔を出すたびに眉をひそめる。

ミシェル刑事
ラヴォワ警部の部下。観察眼が鋭く、地道な聞き込みを得意とする。明智の言動を密かに面白がっている節がある。

 


第一話 夢幻の出会い

パリ、モンマルトルの丘。
 春の光が斜面を包み、古い家々の屋根瓦が銀色にきらめいていた。
 石畳の道はゆるやかに曲がりながら坂を登り、道端にはチュリップやミモザの鉢が並ぶ。
 どこからともなく、アコーディオンの旋律が漂ってくる。
 その音は、午後の陽だまりのように柔らかく、人々の笑い声と混ざり合っていた。

 カフェのテラスでは、絵筆を握る画学生たちがキャンバスに通りを写し、
 白いワンピースの女性が犬を連れて通り過ぎる。
 風は焼き立てのクロワッサンとコーヒーの香りを運び、
 空には早春の雲がゆっくりと流れていた。

 まるで時間が溶けていくような穏やかな午後。
 ——だが、その風景の中に、ひとりだけ異質な存在がいた。

 坂の下から、黒地に金の家紋を染め抜いた和服姿の男がのしのしと歩いてくる。
 背筋を伸ばし、まるで時代劇の撮影に迷い込んだような格好だ。
 手には地図。しかも逆さま。
 頭には不似合いな山高帽。
 肩からは布製の探偵バッグ。

 人々は目を丸くして振り返る。
 「Regarde, un samouraï !(見て、サムライよ!)」
 「C’est pour un film ?(映画の撮影かしら?)」
 観光客のカメラがカシャリと音を立てた。

 男は気づいていない。
 むしろ、注目を浴びて満足げに微笑んでいた。

 その男こそ——明智小誤郎
 自称探偵。
 目的は「フランス芸術の香りを吸って推理力を磨く」という、本人以外には理解不能な理由だった。

 「えーと……“モンマルトル画廊……どっちだ?」
 彼は逆さの地図を凝視し、首をかしげた。
 すると通りかかったパン屋の青年が声をかける。
 「Monsieur ? Vous êtes perdu ?(ムッシュ、迷子ですか?)」
 「すみませーん! モンマルトル……ギャラリー?」
 「Pardon ?(え?)」
 「ボンジュール!」
 「……Bonjour.(こんにちは)」
 「メルシー!」
 「……?」

 パン屋は戸惑いながら坂の上を指差した。
 「Là-haut, monsieur.(あっちですよ)」
 「ラオー? ラオーとはラオスのことかな? なるほど、東南アジア方面か……
 小誤郎は勝手に納得し、堂々と坂を登っていった。

 春のパリ。
 芸術家たちが夢と恋と絵の具にまみれて暮らす丘に、
 この日、奇妙な観光探偵が足を踏み入れた。
 誰も知らない。
 これが、やがてモンマルトルを震撼させる連続事件の幕開けとなることを——


  坂を登りきったとき、小誤郎は一枚の看板に目を止めた。
 「Exposition — Chiharuna Nakata
 白地に金の文字でそう書かれている。

 「チハルーナ・ナカタ……? 日本人? いや、なんだか外国の響きもあるな……
 小誤郎は看板を凝視し、眉をひそめた。
 「フランス芸術の香りを吸う旅の途中で、日本人の名前に出会うとは。
 これは……運命の邂逅に違いない!」

 勢いよくドアを開けると、外の喧騒がふっと消えた。
 中は静かだった。
 白い壁に、淡く光る照明。
 空気には香水と油絵の具の匂いが混じり合っている。
 壁一面に飾られた絵は、どれも幻想的で、現実と夢の境界を溶かすような筆致だった。
 青い霧の中に沈む女性、月の下で踊る影、そしてどこか懐かしい日本の庭。

 その中央に、ひとりの女が立っていた。
 黒いドレスに身を包み、背筋をまっすぐに伸ばした姿。
 光の角度でその髪が金糸のようにきらめき、肌は絹のように滑らかだった。
 日本人にも、フランス人にも見える。
 いや——どこか現実味がない。
 まるで絵の中から抜け出してきたような女。

 彼女は振り向き、やわらかく微笑んだ。
 「Bonjour… 絵を楽しでくださって(こんにちは……絵を楽しんでくださって?)

 小誤郎は一瞬、固まった。
 「ボ、ボンジュール! ……え?」
 「あなた、日本の方?」
 「はい! 自称探偵の明智小誤郎と申します!」
 「探偵?」
 チハルーナの声は低く澄んでいて、どこかフランス語の抑揚を帯びていた。
 「なぜここに?」
 「たまたま通りかかりまして!」
 「……偶然なのね。」
 「人生の真理です!」

 その言葉に、チハルーナはふっと口元をほころばせた。
 笑みというより、風が水面にさざ波を立てたような微かな揺らぎ。
 現実の中に幻を一滴垂らしたような、そんな笑顔だった。

「貴方が中田チハルーナ?」

そうよ、私の絵を見て、どう思う?」
 「どう思うと申しますと……」小誤郎は顎に手を当て、真剣にうなずいた。
 「うむ、実に……青い!」
 「青い?」
 「はい! 芸術的青さが満ちております! ブルー・ミステリー・フェア!」
 「……たぶんブルー・ミステリアス・フェアが言いたいのね?」
 「そう、それです!」

 チハルーナは小さく笑った。
 「あなた、面白い方ね。フランス語は?」
 「ボンジュールとメルシーなら完璧です!」
 「それで生活してるの?」
 「ええ、今のところ問題なく通じません!」

 チハルーナは思わず吹き出した。
 その笑い方がまた不思議だった。
 艶やかでいて、どこか遠い場所を見つめているような——

 そのとき、画廊の奥から声がした。
 「Chiharuna, viens un moment s’il te plaît !(チハルーナ、ちょっと来てくれない!)
 年配の女性の声だった。
 「J’arrive.(今行くわ)
 チハルーナは小誤郎に向き直る。
 「少し、待っていてくださる?」
 「もちろんです! 推理の準備運動をしておきます!」
 「準備運動?」
 「心のストレッチです!」

 チハルーナは首をかしげながら去っていった。
 その後ろ姿は、香水の残り香とともに、白い廊下の奥へと溶けていくようだった。

 小誤郎は彼女の去った方向を見つめ、深くうなずいた。
 「ふむ……ただ者ではない。あの微笑み、あの沈黙、あの青さ”……
 推理の匂いがする!」

 だが、この時点で彼の推理は、まだ「芸術的感想文」にも満たない段階だった。
 ——このあと、まさにこの画廊で最初の悲劇が起こることを、
 誰も知らなかった。

 


 明智小誤郎は、展示室の真ん中で腕を組み、うむうむとうなっていた。
 「この筆致……まるで、魂が筆から溢れ出ておる……。うむ、たぶん水彩ですな。」
 「Monsieur, c’est de l’huile.(旦那、油絵ですよ)」と隣の観客がつぶやいた。
 「なるほど、???、なんだって?
 「Non, je parlais juste de la peinture…(いや、ただ絵の話をしただけです……)」
 観客は苦笑し、肩をすくめて去っていった。

 その時、展示室の奥から拍手が起こった。
 チハルーナが戻ってきたのだ。
 隣には、派手なスカーフを首に巻いた女性がいた。
 「Mesdames et messieurs, merci d’être venus aujourd’hui !(皆さま、本日はお越しいただきありがとうございます!)
 その声には華やかな響きがある。
 彼女こそ、この画廊のオーナー、マドレーヌ・ルヴェール
 年のころは五十代、派手な口紅がよく似合う貴婦人だった。

 チハルーナが通訳する。
 「皆さんにお礼を申し上げます。マドレーヌが、この展示をとても誇りに思っていると。」
 マドレーヌは満足げにうなずき、チハルーナの肩に手を置いた。
 Ton talent est une lumière, Chiharuna.(あなたの才能は光そのものよ)
 チハルーナは微笑みながら「Merci, Madame.(ありがとうございます)」と答えた。

 会場は穏やかな拍手に包まれた。
 小誤郎は拍手しながら、感慨深げに呟く。
 「ふむ……光と影、芸術と推理、つまりここには二つの真実がある!」
 「Monsieur ?(え?)」と隣の女性が聞き返した。
 「トゥルー・オブ・デュアル! これが芸術の神髄です!」
  「……Je ne comprends pas.何言ってるのか分からないわ)」
 女性は困ったように微笑み、隣にいた男性と顔を見合わせて去っていった。
 小誤郎は一人、拍手を続けながら満足げにうなずいた。

 「芸術とは、言語を越えた対話なのです!」
 誰にも通じない声が、場内に軽やかに響く。
 チハルーナが少し離れた場所からその様子を見て、ふっと笑った。

 その時、マドレーヌがグラスを手に近づいてきた。
 香水の甘く強い匂いが、ふと空気に溶ける。
 「Bonsoir, monsieur.(こんばんは、ムッシュ)」
 「ボンジュール!」
 「Eh bien, vous êtes quelqu’un de drôle……(あら、あなたは面白い方ね)
 チハルーナがくすくすと笑いながら通訳する。
 「こんばんはって言われたのにこんにちはって返したって」
 「えっ? あっ……時差があるもので!」
 チハルーナの通訳を聞いてドレーヌは声を立てて笑った。
 その笑いは鈴のように響き、周囲の空気を一瞬明るくした。

 「C’est un ami à toi ?(彼はあなたの友人?)」
 「Oui, un… détective japonais.(ええ、日本の探偵なの)」
 「Un détective ? Vraiment ?(探偵? 本当に?)」
 チハルーナが訳す。
 「本当に探偵なの?って」
 「もちろんです! 推理と芸術には共通項があるのです!」
 マドレーヌは目を細めた。
 「Je vois… un artiste de la logique, alors.(なるほど、論理の芸術家というわけね)」

 チハルーナが笑いながら訳す。
 「論理の芸術家ですって」
 「ふむ、実に名言ですな! メルシー!」
 彼の勢いに押されて、マドレーヌはまた小さく笑った。

 「J’aime les gens étranges.(私は、変わった人が好きよ)」
 「変わった人が好き、だそうです」
 「それはありがたい! 私、変わることにかけては天才的でして!」
 チハルーナは肩を震わせ、マドレーヌも堪えきれず吹き出した。

 笑い声とグラスの音が交錯し、再び会場は華やかなざわめきに包まれた。
 マドレーヌはシャンパンを一口含み、天井を見上げるように言った。
 「La lumière est parfaite ce soir…(今夜の光は完璧ね)」
 チハルーナがうなずく。
 「照明も、あなたの作品も完璧よ、と」

 「完璧か……」小誤郎は腕を組んでつぶやいた。
 「では、その完璧の中にこそ、真実の影が潜んでいる!」
 「Monsieur ?(え?)」
 「ノン、ノン、ノン! これは比喩です! メルシー!」

 マドレーヌは肩をすくめ、笑いながら去っていった。
 彼女の歩いたあとに、香水の香りが細い線のように残る。
 その香りはどこか甘く、しかしほんの少し、苦みを帯びていた。

 チハルーナが明智の方を見やり、目を細める。
 「あなた、ほんとうに変わった人ね」
 「よく言われます。だが、変わっている者ほど、真実の入口に近いのです」
 「その入口が、どこにあるのかしら?」
 「ふむ……それを見つけるのが、探偵の務めです!」

 ちょうどその時、会場の奥からグラスの割れる音がした。
 誰かが驚いたように叫ぶ声。
 「Qu’est-ce qui se passe ?(どうしたの?)」
 ざわめきが起こり、人の波が奥へと流れていく。

 チハルーナは顔をこわばらせた。
 「……行きましょう、明智さん」
 「事件の匂いですな!」
 「違うと思うけど……

 ふたりが奥へと進むと、照明がかすかに揺れた。
 その揺らぎの下で、香水の残り香だけが、ひどく濃く漂っていた。

 それが、マドレーヌの最後の香りになるとは――
 まだ誰も知らなかった。

 

 


 人のざわめきが渦を巻くように広がっていった。
 展示室の奥――白い壁の前に、マドレーヌが倒れていた。

 赤いワインのような血が、光沢のある床を染めていく。

 「Madame! Répondez-moi! (マダム! 返事をして!)」
 チハルーナが駆け寄り、膝をついた。
 震える指先で脈を確かめる。
 ……冷たい。

 「……もう、息をしていないわ」
 その言葉に、観客たちは一斉に息をのんだ。

 「Mon Dieu…(なんてこと)」
 「Qui a fait ça !(誰かがやったんだ!)」
 「Fermez la porte !(ドアを閉めろ!)」
 誰かが叫び、入口付近が騒然となる。

 小誤郎はその場に立ち尽くし、目を丸くした。
 「こ、これは……まさか、芸術的な殺人!?
 「芸術的って何よ!」チハルーナが怒鳴る。
 「つまり! この構図! 光と影、赤と白、死と静寂――美学的に完璧だ!」
 「そんな分析してる場合!?

 「Attendez !(待って!)」
 チハルーナが立ち上がり、会場のフランス人たちに向かって叫ぶ。
 「Ne touchez à rien !(何も触らないで!)」
 その声には、震えながらも冷静な響きがあった。
 「Appelez la policeVite !警察を呼んで、早く!)」

 やがて誰かがスマートフォンを取り出し、通報する声が聞こえた。
 会場の空気は重く沈み、誰もがマドレーヌの遺体から目を離せなかった。

 小誤郎は周囲を見回しながら、ふむふむと腕を組んだ。
 「現場保存……なるほど、フランスでも基本は同じですな!」
 「あなたは黙ってて!」
 「しかし、探偵としての職務が――
 「自称でしょう!」
 「いや、心はいつも本職なのです!」

 床にこぼれた香水が、鉄の匂いと混じり合い、奇妙に甘い香りを放っていた。
 チハルーナはその匂いを嗅ぎ、胸の奥がずきりと痛んだ。
 ついさっきまで笑っていた声が、まだ耳の奥に残っている。

 「マドレーヌさん……どうして……

 「ふむ……
 小誤郎がしゃがみ込み、死体を見つめる。
 「犯人は――右利き!」
 「そんなの、見ただけじゃ分からないでしょう!」
 「直感です!」
 「……論理じゃないんですか?」
 「論理に到達する前の直感は、推理の母なのです!」
 「もういいです!」

 外からパトカーのサイレンが近づいてくる音がした。
 青い光がガラスの外壁を照らし、館内の陰影を不穏に揺らす。

 「警察が来たわ」
 「ふむ、ついにフランスの名警部登場ですな!」
 「あなた、知らないでしょ」
 「推理ドラマにはよくある展開です!」

 ――そして、十五分後。

 画廊の入口に、黒いコートの男が姿を現した。
 髪は短く刈り込まれ、眼光は鋭い。
 パリ警察のラヴォワ警部である。

 「Qu’est-ce qui s’est passé ici ?(ここで何があった?)」
 低い声が響く。
 チハルーナが説明を始めようとしたその瞬間――

 「ボンジュール!」

 警部は一瞬、眉をひそめた。
 「……Bonjour.……こんにちは?)」
 「探偵デス!」
 「Comment ?(何?)」

 チハルーナが慌てて割って入る。
 「Monsieur le commissaire, il dit qu’il est détective… venu du Japon.(警部、この方、自分は日本から来た探偵だと言ってます)」

 ラヴォワ警部は明智を頭の先から靴の先までじろりと見た。
 そして、鼻で笑いながら言った。
 「Un détective ? Vraiment ?(探偵?本物か?)」

 チハルーナは肩をすくめる。
 「Disons… il se dit détective.(まあ、自称、みたいです)」

 警部は短くため息をつき、手を振った。
 「Pff… Les touristes, restez en arrière.(観光客は引っ込んでいろ)」

 「なんと言ってるんですか?」
 「頑張ってくださいだそうです。」
 「おお!やはりフランス警察は協力的ですな!」

 チハルーナは顔を背け、笑いをこらえた。

 その肩の震えの奥に、まだ消えぬ恐怖が隠れていた――


 現場検証が始まる。
 マドレーヌの周囲には倒れたワイングラスと、散乱した筆、キャンバス。
 明智は腕を組み、真剣な顔で言った。
 「ふむ……筆の向きが東を指している。ワインの跡は北。つまり……“北東が暗号だ!」
 「何の暗号ですか?」
 「きたひがし”……“キタヒガシ”……いや、北東風か!」
 「……風ですか。」
 「つまり、犯人は風のように消えたのです!」

 警官たちが互いに顔を見合わせた。
 「Il est fou ?(この男、頭がおかしいのか?)」
 「Je crois que oui.(たぶんそうです)」
 チハルーナは肩をすくめるしかなかった。


 ラヴォワ警部が現場を見渡し、冷静に言った。
 「D’après la plaie au cou, la victime est morte presque immédiatement après avoir été poignardée.(首筋の傷から見て、被害者は刺された直後に即死だ)」
 「L’arme est un couteau trouvé à proximité. Aucune empreinte identifiable.(凶器は近くのナイフ。指紋は特定できません)」
 警部は腕を組む。
 「Tout indique un meurtre commis par une connaissance.(顔見知りの犯行だな)」

 チハルーナが青ざめる。
 「C’est… impossible…(そんな……)」

 「Avez-vous des ennemis ? Quelqu’un qui vous en veut ?(恨みを持つ者はいませんか?)」
 「Je… je ne sais pas.(わかりません……)」

 その時――
 明智が、何も理解していない顔で突然前に出た。
 「待ってください!」

 全員の視線が一斉に彼に向く。
 「この場の空気が語っています!」

 「Quoi ?(何だ?)」とラヴォワ警部が眉をひそめる。
 「この犯行の動機は――恨みではない!」
 「……Qu’est-ce qu’il dit ?(何を言っている?)」
 チハルーナが小声で訳す。
 「Il dit que ce n’est pas de la rancune. (恨みではないって言ってます)
Alors quoi ?(じゃあ何だ?)」とチハルーナに問う。

 明智はフランス語の響きに、ぴくりと反応した。
 「おっ、今、私に質問しましたね!」
 チハルーナが「え、してません」と言うより早く、彼は胸を張って高らかに叫んだ。
 「愛です!」

 場の空気が一瞬、凍る。

 「……Quoi ?(え?)」と警部。

 チハルーナが通訳する。
 「Il dit… que c’est par amour qu’on l’a tuée.(愛ゆえに殺したのだと)」

 警部はしばらく沈黙し、そして小さくため息をついた。
 Les Japonais… sont vraiment mystérieux.(日本人は本当に謎めいている)」

 チハルーナは苦笑しながら明智を見やった。
 「あなたの言うこと、たぶん誰にも通じてないわね。」
 「ボンジュール!」

 警部は眉をひそめ、
 「……Qu’il reste à l’écart, celui-là.(この男は、あっちに下がっていろ)」とつぶやいた。
 だが明智は聞こえず、真剣な顔で現場を見つめていた。
 彼の頭の中では、もう論理の絵画が描かれ始めていた。

ラヴォワ警部は無言で立ち上がり、部下に指示を出した。
 「Photographiez tout. Ne touchez à rien.(すべて撮影しろ。何も触るな)」
 フラッシュが何度も光り、絵画の影が壁に揺れる。

 マドレーヌの遺体は床に横たわっていた。
 真紅のスカーフが血に濡れ、まるで絵画の一部のように沈黙している。
 香水の甘い香りがまだ漂い、そこに鉄の匂いが混じっていた。

 チハルーナは顔を覆い、声を震わせた。
 「そんな……マドレーヌが……
 警部が静かに尋ねる。
 「Vous la connaissiez bien ?(あなたは彼女と親しかった?)」
 「Oui… c’était comme une mère pour moi.(ええ、母のような人でした)」

 明智はその言葉を理解できず、ただ二人の表情を交互に見つめる。
 「なんと言ってるんですか?」
 「あなたは何を食べましたか?だそうです。」
 「おお! 捜査は胃袋から、さすがフランス警察ですな!」
 チハルーナは涙を拭いながら、思わず吹き出した。

 ラヴォワ警部は少し怪訝そうに眉をひそめる。
 「Il rit ?(笑っているのか?)」
 「Oui… puisque c’est un Japonais.(はい、日本人ですから)」
 警部は納得したようにうなずき、
 「Les Japonais… toujours calmes.(日本人はいつも落ち着いている)」
 とつぶやいた。

 そのとき、部下が血のついたナイフをビニール袋に入れて持ってきた。
 「Chef, on a trouvé ça derrière le rideau.(ボス、カーテンの裏にこれが)」
 警部は鋭く見つめる。
 「Pas d’empreintes… nettoyé.(指紋はない、拭かれてる)」

 チハルーナは思わず明智を見た。
 「警部は、指紋が拭き取られてるって。」
 「なるほど!」
 明智は顎に手を当て、目を輝かせる。
 「つまり――犯人は潔癖症ですな!」
 「えっ?」
 「そうでしょう? 人を殺しておいて、手垢だけは許せなかった!」
 「……いや、それは違うと思う。」

 ラヴォワ警部が再び彼に目を向けた。
 「Monsieur le détective japonais…(日本の探偵さん)」
 明智は姿勢を正す。
 「ボンジュール!」
 「……Avez-vous une idée du mobile ?(動機に心当たりは?)」
 「何か見つけたか?と聞いてます!」とチハルーナが助け舟を出す。
 「もちろんです!」
 明智は胸を張った。
 「芸術です!」
 「……芸術?」
 「そう、芸術の嫉妬と、愛の混合です! まるでワインのように!」

 警部は深いため息をついた。
 「Chiharuna… je vous laisse traduire.(チハルーナ、あなたが訳して)」
 「Il paraît que c’est un vin d’art et d’amour.  (芸術と愛のワインだそうです)
 「……Je vois.(そうか)」
 警部はそっと帽子を押し上げ、
 「Paris est vraiment pleine de fous.(パリには本当に変人が多い)」
 と呟いた。

 明智はにこりと笑った。
 「私もそう思います!」

 


 その日の夕暮れ、現場が封鎖されたあと、チハルーナはひとり残っていた。
 逆さまに掛けられた一枚の絵。
 それは、湖に映る月を描いた作品だった。
 「……誰が、こんなことを。」
 彼女の頬を夜風が撫でる。

 そこへ、明智が戻ってきた。
 「あなた、大丈夫ですか?」
 「ええ……ただ、少し、世界が逆さまに見えるの。」
 「……逆さま?」
 「Le monde est parfois à l’envers(世界は時々、逆さまになるのよ)」
 「……それが、あなたの絵のテーマですか?」
 チハルーナは微笑んだ。
 「さあ、どうかしら。」

 明智は彼女を見つめながら言った。
 「私には、あなたこそ夢幻のように見える。」
 チハルーナは静かに首を傾げた。
 「夢幻?」
 「ええ。手を伸ばせば消えてしまいそうな。」

 午後の終わりの陽光が二人の間を照らしていた。
 明智はまだ知らない。
 この夢幻の美女が、これから起こる一連の怪事件の中心となることを——


そののモンマルトル警察署。
 外では雨が降り始め、街灯の明かりが濡れた石畳にゆらめいていた。
 取調室のガラス越しに、中田チハルーナが静かに座っている。
 彼女の指先には、まだ微かに絵の具の青が残っていた。

 向かいにいるのは、ラヴォワ警部。
 Vous connaissiez bien la victime, madame Nakata ?(被害者とは親しかったのですか?)
 「Oui… elle croyait en mon talent plus que moi-même.(ええ……彼女は、私以上に私の才能を信じてくれました)
 「Avait-elle des ennemis ?(彼女に敵は?)
 「Non, je ne pense pas...(いいえ、そんな人ではありません)

 チハルーナは淡々と答えたが、瞳の奥には何かを押し殺すような静かな光が宿っていた。
 ラヴォワは記録用紙を閉じ、短く息を吐く。
 「Très bien. Vous pouvez partir, mais restez en ville.(よろしい。帰って構いませんが、しばらくこの街を離れないでください)
 「Oui.(わかりました)

 扉が開く音。
 外の廊下で待っていた明智小誤郎が、勢いよく立ち上がった。
 「チハルーナ嬢! お怪我はございませんか!」
 「……私は無事です。心配してくださって、ありがとう。」
 「いえいえ、推理仲間として当然のことを!」
 「……推理仲間?」

 その言葉を警官たちは怪訝そうに聞いていた。
 ラヴォワ警部はこめかみを押さえ、ため息をつく。
 Cet homme, il n’est pas de la police, n’est-ce pas ?(この男、警官じゃないんだろう?)
 「Non, il dit qu’il est détective japonais.(いいえ、日本の探偵だと自称してます)
 「Bon Dieu...(なんてことだ)

 廊下を出たあと、小誤郎は真剣な顔で言った。
 「しかし不思議ですな……この事件、絵の配置、筆の向き、そしてグラスの割れ方! すべて意味を持っている!」
 「そう思うの?」
 「ええ、犯人は芸術を理解している人物に違いありません!」
 「……そうかもしれないわね。」

 チハルーナの声は静かだった。
 その静けさの中に、どこか諦めのような響きがあった。

 「チハルーナ嬢。」
 「何?」
 「この事件、私にお任せください! 必ずや真相を突き止めてみせます!」
 「……あなたが?」
 「はい! このフランスに潜む芸術的暗号を読み解くのは、私しかいない!」

 チハルーナは小さく微笑んだ。
 その笑みはどこか、夢を見るように儚かった。
 「探偵さん……フランスは、あなたが思うよりもずっと複雑よ。」
 「複雑こそ、推理の華です!」

 その時、警察署の奥から怒声が聞こえた。
 Mais qu’est-ce qu’il fout encore ici, ce Japonais !(あの日本人、なんでまだここにいるんだ!)
 「Il dit qu’il enquête.(捜査してるって)
 「Quoi ?!(はあ?!

 小誤郎は聞こえぬふりで、帽子を深くかぶり直した。
 「ではチハルーナ嬢、私は現場へ戻ります! きっと真実の筆跡が残っているはずです!」
 「……どうかお気をつけて。」
 「もちろん! 探偵は命より帽子を大事にするのです!」

 外に出ると、雨はさらに強くなっていた。
 モンマルトルの街灯が濡れた石畳にぼんやり映り、遠くで教会の鐘が鳴る。
 小誤郎は傘も差さずに坂を登りながら、ひとりごちた。
 「ふむ……事件の香り、芸術の香り、どちらも混ざっておる……。これはただの殺人ではない、魂の叫びだ!」

 その頃、チハルーナは警察署の出口で立ち止まり、濡れた空を見上げていた。
 雨粒が頬を伝う。
 それは涙のようにも見えたが、彼女自身にも区別がつかなかった。

 彼女の心には、ある遠い国の記憶がふとよぎっていた。
 ——日本。
 今でもときおりビデオチャットで話す、懐かしい友人の笑顔。
 鎌倉光子
 「もし、彼女がここにいてくれたら……

 チハルーナはそっと息をついた。
 雨の匂いの向こうで、パリの街が静かに光っている。
 その夜、誰も知らないところで、最初の遠隔のスイッチが、静かに入れられようとしていた——

 

次回予告 第2話「夢幻の連絡」

 チハルーナのアトリエに、夜更けのビデオ通話が鳴る。
 画面の向こうで微笑むのは、日本の友人・鎌倉光子。
 穏やかな会話の裏で、静かに揺れる天井の鎖。
 そして——次の朝、ひとりの命が途絶えていた。



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