『鎌鼬のいたずら――金田一ポン助霊怪事件帖』 風車が呼んだ風神の逆鱗~第弐章
第弐章 祠の唄
石段までの道は、里から一歩外れただけで、たちまち人の手から離れた時間を取り戻していた。
家並みの屋根が見えなくなると、道は細くなり、両側から草が背を寄せ合うように伸びている。
足元は雨に洗われて黒光りする土で、ところどころに露を含んだ落ち葉が張り付いていた。
歩を進めるたびに、靴底に粘土の感触が残り、時折ぬかるみに片足を取られそうになる。
谷に向かって下る斜面には、古い杉の巨木が並び、枝の隙間からは薄い朝霧が差し込む。
風は木の葉を叩いて遠くの岩壁へと渡り、時折、水の音――小さな沢のせせらぎ――が混じった。
藪をかき分けると、古びた道標が苔に覆われた文字を薄く見せており、「祠」へと指し示している。
指先で触れると、湿った苔の冷たさが爪先に伝わった。
石段に差し掛かると、道は急になり、段差はまばらで不均等だった。
長い年月の間に雨と根に押されて歪み、ところどころに根が這い出している。
踏み外せば足首をひねりかねないが、三人の歩調は乱れない。
清乃は一歩一歩を確かめるように進み、時折立ち止まって風の向きを測るように耳をそばだてていた。
美鶴はカメラの蓋を開ける指を止め、古い石の表面に刻まれた風紋や小さな苔の生え方を写真に収めたい衝動を抑えている。
灯籠は二基のうち一つが朽ち果て、横倒しになって草に埋もれかけていた。
もう一方はかろうじて直立し、その火袋は煤で黒く、底には小さな水たまりが溜まっている。
石段の脇には藁で編んだ馬小屋か供物台の跡があり、彫りの浅い獣の紋が崩れかけている。
風雨に磨かれた手すり石には、たくさんの小さな削れ跡があり、誰かが何度も手を当てて祈った痕跡のように見えた。
祠の扉は、外から見るよりもさらに朽ちていた。
木の表面は乾いて割れ、古い漆の名残が斑に残る。
蝶番は錆びつき、触れるとかすかな軋みの音を立てた。
だが扉を押して中を覗くと、意外にも空気が澄んでいて、ほこりは床に薄く堆積しているだけで、虫の羽音も抑えられている。
内部の石壁には、風を表すらしい渦巻きと、人の形を象った粗い象嵌が施され、その周縁には古い絵馬や紙垂(しで)の端切れが小さく引っかかっている。
壁面の刻字は深く彫られているが、文字の一部は苔や年月で判読が難くなっていた。
灯りをかざすと、刻まれた線の間から土の匂いと、ほのかな金属臭にも似た古い匂いが立ち上る。
清乃の指先が震えるのを、ポン助は見逃さなかった。
石の床には小さな水溜りがいくつかあり、その表面に空が反射して墨のように揺れている。
供え物の皿は一つ残り、中に乾いた米粒が僅かに張り付いていた。
誰かが最近、ここに手を入れていた痕跡――それは作為的ではなく、むしろ悲しげなほど慎ましい手入れだった。
祠全体を包むのは、「封じられた」というより「息を殺している」ような空気だ。
外の風が唸りを上げるたび、屋根の隙間を通って低い共鳴音が立ち、石の刻紋が微かに震える。
清乃はその音に瞳を潤ませ、小さく唇を噛んだ。
三人は互いに視線を交わし、ここに刻まれた言葉の重さをそれぞれの胸で折りたたむようにして黙り込む。
やがて、清乃が灯りをかざし、かすれた声で読み上げた。
「“風を鎮めるには、人ひとりの血をもって、谷の息を封ずべし”……」
美鶴が思わず息を呑む。
「まさか、人柱の伝承……?」
ポン助は頷き、指で壁の文様をなぞった。
「祈りと恐れは紙一重。風を縛った代償が、今も残っておるようですな」
その言葉に、祠の奥で風鈴がかすかに鳴り、冷たい風が三人の頬を撫でた。
それはまるで、封じられた“誰か”が息を返したかのようだった。
その時、背後で木の枝が折れる音がした。
振り向くと、灯籠の陰からひとりの影が現れる。
村長・沢渡庄三だった。
「……こんな夜更けに、祠を荒らす気か」
低い声に、美鶴が驚いて後ずさる。
ポン助は帽子を直しながら、にやりと笑った。
「荒らすだなんて人聞きの悪い。ちょいと風と語らってただけです」
村長の手には、修復用と思しき工具袋が握られていた。
その手元を見て、美鶴が息を呑む。
「……あなたが、この祠を?」
村長は短く息を吐き、言葉を濁した。
「村を守るためだ。それ以上の意味はない」
清乃がそっと囁く。
「……嘘だ。おじいちゃんの風、怯えてる」
祠の中で風鈴が鳴った。
冷たい風が吹き抜け、三人の灯りを揺らした――。
祠の奥から、ひときわ強い風が吹きつけた。
灯りの火が細く揺れ、壁に刻まれた文様が浮かび上がる。
それは人の形にも、風の渦にも見える奇妙な図だった。
ポン助が小声で呟く。
「……人柱、ですかな。風を鎮めるために、人を“息”として捧げた。つまり、谷の呼吸を封じたということです」
村長・沢渡が眉をひそめる。
「根も葉もない昔話だ。村の者は誰もそんな儀式を知らん」
「けれど、その“知らん”という沈黙こそが封印の証でしょうな」
村長は返す言葉を失い、工具袋を握りしめた。
そして、祠の入口に鍵をかけるように手をかざすと、背を向けた。
「これ以上、風を掘り返すな。……この村には、風の決まりがある」
その背に、清乃が震える声で呼びかけた。
「おじいちゃん……風が怖がってる。閉じ込めちゃいけないの」
沢渡は振り返らず、ただひとことだけ残した。
「怖がっているのは、人間のほうだ」
◇
夜が更け、宿の囲炉裏には火が落ちかけていた。
美鶴が取材ノートを閉じ、息を吐く。
「人柱伝承、祠の修復……あの村長、何か隠してるわね」
ポン助は茶をすすりながら、静かに笑った。
「風を恐れる人間ほど、風を操りたがるものです。……まあ、そういうのを“信心”とも呼びますな」
その時、戸口の向こうから低い声がした。
「信心が足りんのさ」
振り向くと、祠守りの老婆タツが立っていた。
白髪をひとつに束ね、杖をついたその姿は、まるで風そのものが形を取ったようだった。
灯りが揺れるたび、彼女の影が長く伸びる。
「風は血を求めとる。谷が飢えとるんじゃ。あの祠をいじれば、また呼ぶことになる」
タツの目は爛々と光り、声は掠れていた。
美鶴が反論しかけたが、ポン助が手で制した。
「呼ぶとは、何を?」
「鎌鼬じゃよ。風の子じゃ。封印を破れば、また血を舐めに来る」
老婆はそのまま踵を返し、外の霧の中へと消えていった。
扉の向こうで風がひときわ強く唸り、火がふっと揺らいだ。
美鶴が身を震わせる。
「……本当に、祟りなんてあると思う?」
ポン助は火を見つめながら、微笑んだ。
「祟りとは、信じた人間の数だけ実在するものでしてな。けれど――風が“血を覚えた”なら、話は別です」
その夜、谷の奥でひときわ大きな風が吹いた。
祠の方角から、まるで唄うような音が響く。
それは人の声にも、風の嘆きにも聞こえた。
そして翌朝――
村の若い男が、川辺で倒れているのが見つかった。
身体には外傷はなく、ただ唇が青白く、まるで血が抜かれたようだった。
村人たちは再び叫ぶ。
「鎌鼬じゃ――祠の封印が破れたんだ!」
風がざわめき、祠の唄が再び谷にこだました。
谷は灰色の霧に覆われていた。
夜のあいだ吹き荒れた風が、ようやく息をひそめたかのように静まり返っている。
村の外れ――川沿いの岩場に、人だかりができていた。
そこには、村の若者・川井悟の身体が横たわっていた。
顔色は死人のそれで、手足は冷たく硬直している。
傷一つ見当たらず、ただ唇の色だけが異様に青い。
「……まただ。風が、血を吸ったんだ」
誰かがそう呟くと、村人たちの間にざわめきが広がる。
老婆タツが杖を握りしめ、祈るように震えた声を上げた。
「だから言ったんじゃ……風を鎮めぬうちは、また呼ぶと!」
「鎌鼬(かまいたち)さまの怒りだ……」
「この前やられた柿沼も、あの風車の工事に関わってたろう?」
「悟もそうだ。亮介とよう一緒におった。あいつも、風を汚したんだ……」
「ほら見ろ、あの唇の青さ……風の毒にやられた証拠だ」
「昔からそうだ、風の道を乱すと、鎌鼬は人を刈り取るって……」
噂はたちまち連鎖し、恐れと納得が入り混じった声が渦を巻く。
誰も近づこうとはせず、誰も触れようとはしなかった。
ただ風だけが、川面を滑るように吹き渡り、悟の髪を静かに揺らしていた。
その場に駆けつけた村長・沢渡は、険しい顔で村人を制した。
「騒ぐな! 黒岩先生を呼べ!」
沢渡の声が響くと、群衆は一斉に黙り込む。
その沈黙の中でも、老婆タツだけはなお小さく呟き続けていた。
「風は見ておるよ……封じを破った報いじゃ……」
やがて、黒岩貞次郎が診療鞄を抱えて現れた。
冷たい空気の中でも、その白衣は妙に清潔で、彼の表情は揺るぎなかった。
「……ふむ」
脈を取り、瞼を開け、唇を確認する。
「外傷なし。毒の反応もない。体温の低下が著しい――低気圧によるショック症状だ」
「ショック……ですって?」
美鶴が問う。
黒岩は頷いた。
「昨夜の突風で急激な気圧の変化が起きた。虚血性ショックで倒れ、低体温に至った可能性が高い。つまり――祟りではない」
しかし村人たちは納得しない。
「先生、また“風が笑った”んだ。あれを聞いた者はみんな死ぬ!」
「鎌鼬が血を啜ってるんだ!」
黒岩は眼鏡を押し上げ、静かに言った。
「迷信が人を殺す。風を悪者にしても、現実は変わらん。」
その言葉に、老婆タツが鋭く叫ぶ。
「嘘じゃ! あんたらの理屈じゃ風は止められん!」
村人の群れが不穏にざわめく中、ポン助が前に出た。
「まあまあ、皆さん落ち着いて。……風は理屈も祟りも、どちらの味も好むようでしてな」
にやりと笑いながらも、その目は真剣だった。
黒岩が彼を見据える。
「また君の“霊のせい”か、治田君。」
「いやいや、金田一ポン助です。治田は、科学に置いてきましたので。」
二人の間に一瞬、冷たい沈黙が落ちた。
やがて黒岩は肩をすくめ、遺体を診療所へ運ぶよう指示した。
「警察には……?」と美鶴が問うと、沢渡がきっぱりと言い切る。
「外には出すな。もう二度と村を騒がせるわけにはいかん。川井の遺体は村の外に出すな。検死を済ませたら、柿沼の遺体と同じように診療所の裏に埋めろ」
と黒岩に向かって指示を出した。
村人たちはその言葉に従い、黙って頷いた。
その姿は、恐怖ではなく“諦め”に似ていた。
風がまた、谷を抜けていく。
まるで誰かが見えない舌で、祠の唄をなぞるように。
ポン助はその風を見上げ、ぼそりと呟いた。
「……風は、同じ歌を二度は唄わない。となると、次は違う音色を奏でる頃合いですな」
美鶴が不安げに尋ねる。
「次……って?」
ポン助は、いつものように笑って帽子を傾けた。
「風の犯人は気まぐれでして。さて、どこを吹くやら――」
谷の奥で、祠の鈴が微かに鳴った。
それは、まだ終わらぬ“唄”のはじまりを告げていた。
清乃の目には微かな揺らぎが映っていた。川井の倒れていた岩場から戻る道すがら、風が異様にざわめき、耳元で囁くように音を立てるのを感じる。
「……風が、泣いている……」
彼女は小声でつぶやいた。
肩越しに見上げる杉の枝がざわめき、葉がかすかに震えた。
それは科学では説明できない微かな違和感だった。
清乃は祠のことを思い出す。
あの壁に刻まれた文字、「風を鎮めるには、人ひとりの血をもって、谷の息を封ずべし」。
川井の死と、この祠の伝承が無関係とは、とても思えなかった。
ポン助が彼女の隣で帽子を直す。
「どうですな、清乃殿。風の声は……ただの偶然ではなさそうですな」
「……川井さんの血……風に吸われた……」
清乃の瞳は潤み、しかし恐怖だけではない確信を帯びていた。
美鶴が慌てて問いかける。
「でも、黒岩先生が科学的に検死したんでしょ? 外傷もないのに?」
ポン助は肩をすくめ、にやりと笑った。
「科学は目に見える現象を追いかけます。しかし、目に見えぬ力、残響する祈り……それを感じる者もおる。清乃殿はその一人ですな」
清乃はうなずき、握りしめた手を胸に押し当てる。
「祠……おじいちゃんが守っていた……あそこに、何かある……」
風が再び谷を抜け、遠くの杉を揺らす。
その中で、微かに、子どものようなくすくす笑う声が混じった気がした。
三人は互いに顔を見合わせる。
村の恐怖は、科学だけでは到底収まらないものだった。
そして、川井の死は――まだ、この谷の物語の始まりに過ぎないことを、静かに告げていた。
次回予告 第参章「風車の密室」
風が止まる夜、風車施設で警備員が死んだ。
吹かぬ風、閉ざされた扉、残された村長の印章――。
「風が止まるのに、風の怪とは……ややこしいですな」
ポン助の呟きが、静寂の谷に響く。
次回、第3話「風車の密室」
――“吹かぬ風”が、最も重い真実を運んでくる。
■ 登場人物
金田一ポン助(治田笑男)
40代後半の自称霊媒師。どこか人を食ったような態度だが、鋭い観察眼を持つ。
「幽霊の正体は、だいたい退屈した人間ですよ」とよく口にする。
矢崎美鶴
新聞記者。発電計画と村の対立を取材するために同行。
最初はポン助の胡散臭さに辟易するが、次第にその奇妙な洞察に惹かれていく。
沢渡庄三(村長)
風ノ谷村の長。外の力を拒み、風力発電計画に猛反対。
村の古い祠の封印を守っており、「風は人の力で縛るな」が口癖。
村のためを思っているが、頑固さゆえに周囲と対立する。
黒岩貞次郎(医師)
村の唯一の医師。かつて都市部で研究職にあったが挫折し、風ノ谷に流れ着いた。
冷静沈着で、村人からは「理性的な都会の人」として頼りにされている。
→ 真犯人だが、最終話まで読者の疑念は向かない。
柿沼亮介
発電事業の現場監督。理屈っぽく、村人を軽んじる発言で敵を作る。
第1の犠牲者。
祠守り・老婆タツ
村に伝わる祠を守る年老いた巫女。
「風の神を怒らせてはならぬ」と呪文のように唱える。
ポン助を“風を呼ぶ男”と恐れる。
沢渡清乃
村長の孫娘(10代後半)。
幼い頃から“風の声が聞こえる”と語る不思議な少女。
村人たちは彼女を“風の巫女の生まれ変わり”と呼び、避けている。
物語を通じてポン助に心を開き、風の異変を察知するキーパーソンとなる。

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