『鎌鼬のいたずら――金田一ポン助霊怪事件帖』 風車が呼んだ風神の逆鱗~第参章
第参章 風車の密室
川井悟が倒れた岩場から村に知らせが届いた夜、谷の風はいつもより冷たく、家々の屋根を叩きつけるように吹き荒れていた。
村人たちは戸口に立ち、声を潜めてささやき合う。
「川井が……本当に……」
「鎌鼬の仕業か……いや、あの工事のせいだろう」
老婆タツは村の中心に立ち、杖を握りしめながら小声で繰り返した。
「風を鎮めぬ限り、また呼ぶ……また奪われる……」
その声に、多くの村人が背筋を震わせ、家に閉じこもった。
谷の家々では、川井の死について様々な噂が交わされる。
「柿沼と一緒に風車計画に関わってた……だから鎌鼬の怒りを買ったんだ」
「科学でどうにかなるものじゃない……風の神がそう言ってるんだ」
子どもたちは震えながら両親の陰に隠れ、大人たちも真偽のわからぬ噂を止めることができなかった。
夜が更け、風はさらに唸りを上げる。
谷を抜ける冷たい風に混じって、かすかな子どものようなくすくす笑う声が耳をかすめた気がした。
清乃はその音に顔を上げ、震える手を胸に押し当てる。
「風が……また泣いてる……」
翌朝、谷の風はやや収まったものの、どこか重く鈍い音を立てていた。
夜の冷気を引きずった空気が、まだ地を這うように流れている。
家々の屋根に残った霧が、陽の光を拒むように溶けずにいた。
村の人々は眠れぬまま朝餉を囲んでいた。
鍋の湯気が上がるたび、誰もが同じ方向――窓の外、風車の立つ丘を見やる。
昨夜の川井悟の死から一夜。
恐怖はまだ村全体を締めつけていた。
「また風が鳴いとる……」「夜明けなのに、風の音が沈んどる」
そんな囁きが、軒と軒のあいだを渡っていく。
子どもを外に出さぬようにと戸を閉め、男たちは無言のまま腰を上げた。
「行ってくる。現場を見ねば落ち着かん」
「やめとけ。風の怒りに触れる」
そう言い合いながらも、結局数人が風力発電施設の方へ向かった。
胸の奥では恐怖よりも、確かめずにはいられない焦りが勝っていた。
坂道を登るにつれて霧が薄れ、鉄の塔が朝陽を受けてぼんやりと浮かび上がる。
風車は止まったまま、巨大な翼をぴくりとも動かさずに立っていた。
敷地の柵の鍵は外れ、昨夜のうちに誰かが入った形跡がある。
施設の外壁には夜露がびっしりと張りつき、地面には靴跡がいくつも重なっていた。
警備詰所の窓は閉じたままで、ガラス越しにランプの明かりがうっすら残っている。
「おい、中島……!」
先頭にいた男が声をかけた。返事はない。
恐る恐る制御室の扉を押す。
中は薄暗く、機器の表示灯が赤く点滅している。
その光に照らされて、机のそばに倒れている男の姿が見えた。
中島正樹――施設の夜警だった。
制服の襟は乱れておらず、顔には苦悶の跡もない。
ただ、唇の色が異様に青く、まるで血の気というものが抜け落ちていた。
指先を触れると、すでに冷たく硬直している。
「また……またやられたのか……?」
男たちの背後で誰かがそう呟き、
次の瞬間には「風が止まっていたんだぞ」「風が吹かない夜に死んだんだ」とざわめきが広がる。
窓は内側から施錠され、外気の通り道はない。
紙ひとつ揺れる気配もなく、空気は重く沈みきっていた。
それでも、誰もが確かに感じていた――
この部屋には“風の残り香”がある、と。
やがて、坂の下から村人たちの駆け足が聞こえ、
その中に、帽子を被り直す金田一ポン助と、記録帳を握りしめた美鶴の姿があった。
「風が止まる夜に、風の怪……」
ポン助は口の端を吊り上げ、制御室の静寂を見渡した。
「こりゃまた、ややこしいですな」
「また……風が、血を吸ったんだ」
誰かが呟くと、群衆のざわめきが一気に広がる。
「信じられん……密室で、どうして……」
老婆タツは杖を握りしめ、祈るように声を震わせる。
「封じぬ限り……また呼ぶと……」
その場に駆けつけた村長・沢渡は、険しい顔で群衆を制した。
「騒ぐな! 黒岩先生を呼べ!」
村人たちは沈黙しつつも、心の中では再び恐怖と疑念が渦巻く。
川井悟の死と中島正樹の死が、谷に連鎖的な不安を生み、村全体を緊張の渦に巻き込んでいた。
制御室の中は、ひどく静かだった。
風力発電施設の白い壁が朝の光を鈍く返し、冷たい鉄の匂いが漂っている。
黒岩医師が手袋をはめ、中島正樹の死体のそばにしゃがんだ。
「脈なし、体温は低下、外傷もない……だが、この唇の色は――」
彼は僅かに眉を寄せ、指先で頬に触れた。
「低酸素、あるいは……急性ショックの可能性が高いな」
「先生、風はまったく吹いていなかったんですよ」
施設職員が青ざめた顔で言う。
「扉も窓も閉めきってた。あんたらが来るまで、誰も触ってません」
黒岩は立ち上がり、制御盤のランプを見やった。
機器はすべて正常、電源も落ちていない。
まるで、ただ“空気だけが奪われた”ような異常だった。
ポン助が壁際に立ち、帽子を指先でくるりと回す。
「風のない部屋で命を奪うとは、風そのものより器用な奴ですな」
美鶴が険しい顔で言い返す。
「冗談言ってる場合じゃないわ。……これじゃまるで密室殺人よ」
そのとき、制御室の片隅で誰かが叫んだ。
「これ……村長の印章だ!」
全員の視線が一点に集まる。
床の埃の上に、小さな朱印の木片が落ちていた。
村長・沢渡の名がくっきりと刻まれている。
「なぜこんな場所に……」
黒岩が低く呟く。
村人たちはざわめき、怒号が上がる。
「庄三がやったんだ!」「谷を守るってのは口先だけか!」
その喧騒の中、村長は険しい顔で現れた。
「待て、私は知らん! そんなもの、どうしてここに!」
だが彼の声は怒号にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
ポン助はその様子を静かに眺め、低く呟いた。
「風が止まる夜に風の怪。こりゃまた、ややこしいですな」
黒岩は人々の前に立ち、冷静な声で言った。
「落ち着きなさい。事故か事件かは、これから調べればいい。
私は医師として、真実を確かめる義務がある」
その理知的な言葉に、村人たちは少しずつ口を閉ざす。
美鶴はそんな黒岩を見つめながら、思わずつぶやく。
「……頼もしい人ね」
黒岩はほほ笑み、ほんの一瞬だけ、瞳の奥に暗い光を宿した。
「そう思ってくれるなら、嬉しいですよ」
その後ろで、ポン助が小さく頭を傾ける。
「ふむ……風が止まっても、人の心は吹き荒れておるようですな」
外では、風車の羽が一枚、きい、と軋んで動いた。
だがそのとき、谷全体には一片の風も吹いてはいなかった――。
死体は村の若者たちによって黒岩医師の診療所に運ばれた。
外では、風車の止まった丘を背に、村人たちが二手に分かれて口論している。
「沢渡が呼んだんだ、鎌鼬を! 谷を売り渡した報いだ!」
「馬鹿を言うな、風車がなきゃ村は終わる! 鎌鼬なんざ迷信だ!」
その怒号が交錯するたび、山の空気はさらに重く沈んでいった。
黒岩貞次郎は、診療所の窓からその様子を眺めていた。
やがて、美鶴が入ってくる。
疲れの滲む顔をしていたが、その瞳だけは鋭く光っている。
「先生、村の人たち……もうめちゃくちゃです。
村長の家に石まで投げる人がいる」
黒岩は眼鏡の奥で目を細め、静かに首を振った。
「集団は、恐怖を与えられると理性を失うものです。
誰かを“悪”に仕立て上げないと、心が持たない」
「でも、本当に村長が……?」
美鶴が言いかけると、黒岩はふっと苦笑した。
「――あの男は昔から、理屈を語りながら、実際には一番感情的だった」
「先生は、村長と長い付き合いなんですよね」
「ええ。……昔は、互いに“谷を変えよう”と誓ったものですよ」
黒岩の声がかすかに沈む。
「だが、彼は“風”を信じた。
私は“科学”を信じた。
そして今、どちらの信仰も人を殺している」
美鶴は黙ってその横顔を見つめた。
医師としての冷静さの奥に、微かに嫉妬とも執着ともつかぬ影が覗く。
黒岩は窓の外を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「あなたはどう思いますか、記者さん。
風を縛ろうとしたのは、果たして誰なんでしょうね」
美鶴は答えられなかった。
ただ、沈黙の中で外の風車が軋む音が、どこか人の呻き声のように響いていた。
夜の谷は、不気味なほど静まり返っていた。
風車のブレードも止まり、ただ赤い警告灯だけが、間欠的に闇を切り裂く。
集会所では、ランプの光がわずかに揺れていた。
村人たちは口々に叫び、机を叩く者もいた。
「もう限界だ!」「村長の仕業だろうが!」
「また風の神が怒ったんだ! あの機械のせいで!」
怒号の中、黒岩貞次郎が椅子を引いて静かに立ち上がった。
その一挙手に、ざわめきがすっと引いていく。
村で唯一、“理屈の通る男”として、誰もが耳を傾けざるを得なかった。
「……まず落ち着きなさい。
死因は外傷も窒息もなく、強いショックか、急性の心不全の線が濃い。
密室だの風だのと、神がかりな話をしても何の解決にもならん」
彼の声は低く穏やかだったが、言葉の端に鉄のような硬さがあった。
「これは事故だ。そう扱うべきだ。
風車の調整ミス、あるいは停電による設備不良。
警察沙汰になれば、村全体が調査にさらされる。――それでいいのか?」
誰もすぐには答えなかった。
やがて老婆タツが杖を突き、震える声で言った。
「……でも、先生。風が、あの晩だけ止まったんです。
この谷で風が止まるなんて、ありえやしません」
黒岩は目を細めた。
「だからこそ“機械の事故”だと言っている。
自然のせいにすれば、村はますます恐怖に囚われるだけだ」
そのとき、村長・沢渡が立ち上がった。
疲れ果てた顔に、薄暗い光が差す。
「だが黒岩先生。事故にしては出来すぎている。
二人とも、発電計画に関わっていた人間だ」
「偶然です」
黒岩は即答した。
その早さに、村長の表情が一瞬だけ凍りついた。
ポン助が、帽子のつばを指で押さえながら口を開いた。
「偶然……にしては、風があまりに律儀すぎますな。
まるで、誰かが“風を呼び戻している”ようだ」
その言葉に、集会所がざわめいた。
村人たちの視線が、村長と黒岩、そしてポン助に集中する。
黒岩はポン助を睨んだ。
「……治田君、いや――金田一君。
君はいつも、人の不安を煽るのが得意だな」
「いやいや、“風の声を聞く”のが仕事でしてね」
ポン助は軽く笑い、どこか皮肉を含ませた声で続けた。
「ただ、風が止まると人が死ぬ――そういう話は、あまり好きじゃありません」
再び、沈黙。
外で木が軋む音が響き、まるで谷そのものが息を潜めているようだった。
黒岩はゆっくりと村人たちを見回した。
「――では、こうしよう。
この件は私が預かる。医学的、科学的に再検証する。
外部には漏らさない。遺体は診療所の裏に埋める。その代わり、祠や風の噂には一切近づかないこと。いいですね」
しばしの沈黙ののち、村人たちは渋々うなずいた。
だがその中で、誰かが小さく呟いた。
「……先生も、“風”に狙われるかもしれねえのに」
黒岩はその言葉に反応せず、静かにランプの芯を調整した。
炎が少しだけ強くなり、その光の中で、彼の瞳がわずかに陰を帯びた。
集会所を出たあと、夜の空気は一段と冷え込んでいた。
霧が薄く流れ、遠くの風車の影が赤い警告灯の明滅のたびに浮かんでは消える。
黒岩はランプを手に、敷地脇の小道を歩いていた。
「先生」
背後から声がした。美鶴だった。
彼女の手には記者ノート。息を切らせながら、黒岩に追いつく。
「一つだけ教えてください。
あなたは本当に、あれが“事故”だと思ってるんですか?」
黒岩は足を止めず、ランプの光をわずかに下げた。
「……あなたは記者だ。記事にするために聞いているのかね」
「私は――知りたいんです。ただ、それだけ」
美鶴の声は震えていた。
川井の死、そして今朝の中島の死。
どちらも“説明のつかない出来事”のまま、闇の中に押し込められている。
黒岩は小さく息を吐いた。
「死はね、常に説明できないものだよ。
医者の仕事は、説明できる部分だけを拾って記録することだ」
彼は立ち止まり、ランプの光を風車の方へ向けた。
金属の塔が、霧の中に立つその姿は、まるで風を喰らう巨人のように見えた。
「君の仲間――治田、いや、あの金田一いう男。
昔から、科学を煙に巻くのが得意だった」
「先生、ポン助さんをご存じなんですか?」
美鶴が問うと、黒岩はかすかに笑った。
「ええ、昔ね。彼が“治田笑男”と名乗っていた頃だ。
大学で少しだけ顔を合わせた。
人の心理を見透かすくせに、いつもどこかで他人事のように笑っていた」
ランプの炎が揺れ、黒岩の横顔に深い影が走る。
「……科学に救いを求める者を、ああいう人間は嫌うんですよ。
それが“信じる力”だとか、“霊の声”だとか、いちいち詩的な言葉に変えてね」
美鶴は唇を噛んだ。
「でも、彼の言葉に救われてる人もいる。
この村の人たちだって――」
黒岩が振り向いた。
その瞳には、冷たい光が宿っていた。
「救われる? ――いや、ああいう男が一番危ない」
その言葉の裏に、かすかな嫉妬とも怒りともつかない色が混じっていた。
風が一陣吹き抜け、ランプの火がかき消えそうに揺れる。
黒岩は口元を引き締め、静かに付け加えた。
「この谷で本当に恐れるべきは、“風”ではない。
――人が信じるという行為そのものだ」
そう言って彼は、再び歩き出した。
残された美鶴は、胸の奥にひどく冷たいものを感じながら、
霧の中に消えていく背中を見つめ続けた。
次回予告 第肆章
風が止まる夜。
その静寂の中に、谷の祠は再び息を吹き返す。
――次回、第4話「風に棲む影」。
風を封じた者、そして風に囚われた者。
村の“神”が、ついに姿を現す。
■ 登場人物
金田一ポン助(治田笑男)
40代後半の自称霊媒師。どこか人を食ったような態度だが、鋭い観察眼を持つ。
「幽霊の正体は、だいたい退屈した人間ですよ」とよく口にする。
矢崎美鶴
新聞記者。発電計画と村の対立を取材するために同行。
最初はポン助の胡散臭さに辟易するが、次第にその奇妙な洞察に惹かれていく。
沢渡庄三(村長)
風ノ谷村の長。外の力を拒み、風力発電計画に猛反対。
村の古い祠の封印を守っており、「風は人の力で縛るな」が口癖。
村のためを思っているが、頑固さゆえに周囲と対立する。
黒岩貞次郎(医師)
村の唯一の医師。かつて都市部で研究職にあったが挫折し、風ノ谷に流れ着いた。
冷静沈着で、村人からは「理性的な都会の人」として頼りにされている。
→ 真犯人だが、最終話まで読者の疑念は向かない。
柿沼亮介
発電事業の現場監督。理屈っぽく、村人を軽んじる発言で敵を作る。
第1の犠牲者。
祠守り・老婆タツ
村に伝わる祠を守る年老いた巫女。
「風の神を怒らせてはならぬ」と呪文のように唱える。
ポン助を“風を呼ぶ男”と恐れる。
沢渡清乃
村長の孫娘(10代後半)。
幼い頃から“風の声が聞こえる”と語る不思議な少女。
村人たちは彼女を“風の巫女の生まれ変わり”と呼び、避けている。
物語を通じてポン助に心を開き、風の異変を察知するキーパーソンとなる。
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