『鎌鼬のいたずら――金田一ポン助霊怪事件帖』 風車が呼んだ風神の逆鱗~第肆章
第肆章 風に棲む影
村の空気は、もはや風の音ひとつにも怯えるほど張り詰めていた。
風車施設での“密室の死”が村人たちの疑念を決定づけたのだ。
「村長が、風の封印を破ったんだ」
「祠を直していたのも、あの人だ……」
「鎌鼬を呼び戻したのは、沢渡様自身じゃねぇのか」
そんな声が井戸端でも道の角でも囁かれ、
沢渡庄三の屋敷は夜ごと戸口を叩かれるようになった。
村の守り手だった男は、今や風を怒らせた張本人とされている。
ポン助は宿の縁側で、湯呑を手に静かに風を聞いていた。
「人の恐れは風より速いもんですな」
美鶴が険しい顔で新聞の草稿を握りしめた。
「でも、村長さんが祠を修復していたのは本当でしょう? 隠してた理由がわからない」
「隠し事というより――“護っていた”のかもしれませんな」
ポン助はそう言って、空を仰いだ。
「けどまぁ、“護り”も過ぎれば呪いになります」
その夜、谷を抜ける風が妙に湿っていた。
遠くで犬が吠え、誰かの叫びがそれを裂くように響いた。
縁側の灯りがふっと揺れ、軒下に細い影が伸びる。
「……おや、こんな夜更けにお客とは」
ポン助が湯呑を置くと、灯の外からゆっくり杖をつく音が近づいた。
「……あんた、よそ者じゃな?」
現れたのは祠守りの老婆・タツだった。
しわ深い顔に、谷の夜気を映したような鋭い目をしている。
「こりゃあ、祠の番人さんじゃないですか。どうもどうも」
「番人ってほど立派なもんじゃねえ。風が黙らないうちは、あたしの出番ってだけだ」
「ははぁ、風の通訳ですか。奇遇ですな、私も似たような商売でして」
タツは怪訝な目を向けた。
「金田一ポン助と申します」
タツの目がぱっと見開き、言葉が半分出かかった。
「金田一というと、あの金田一耕助の……」
ポン助はにやりと笑い、間を取って答えた。
「遠い親戚です。」
その言葉の真偽がどれほど確かなのかは、誰にも分からなかった。
ポン助自身も、どこまでが自分の洒落でどこまでが本当かをきちんと言い切らなかったからだ。
タツは鼻で笑い、縁側に腰を下ろした。
「はは、変わったお方じゃ......」
風が軒先の風鈴を揺らし、微かな音が夜に消えた。
ポン助は湯呑を差し出す。
「せっかくです、一杯どうです?」
「いや、あたしはもう体が風と同じでね。茶を飲むより、話のほうが沁みる」
タツは夜の谷を見やり、低く呟いた。
「この谷には、鎌鼬の伝えがある。風の子とも、風の爪とも言うが――ほんとは“風の嫁”さ」
ポン助が目を細める。
「嫁、ですかい?」
「そうさ」タツは縁側の柱に手を置いて、遠くの闇を見つめた。
「昔、この谷に風が止まった年があった。山も畑も、息をしていないようだった。
稲の穂は黒ずみ、川の水はぬるく濁って、村人たちは『風が死んだ』と言った。
どうにもならなくなって、祠守りの家の娘が、こう言ったのさ。
“私が風になる”――ってね」
タツの声は、夜気とともに震えた。
「娘はその夜、白い着物に髪をほどいて、谷の端まで歩いていった。
誰も止められなかった。あの時の風は、泣くように木々を鳴らしてね。
次の朝、谷に霧が満ちて、風が戻った。山は息を吹き返し、田は青くなった。
けれど、娘の姿はどこにもなかった。谷の底にも、髪のひと筋さえ見つからなかったよ」
ポン助は湯呑を静かに置いた。
「それで、祠が建ったんですな」
「そう。娘を風の嫁として祀るためにね」
タツは小さくうなずいた。
「けれど、それで終わりじゃない。風が荒れる年には、決まって誰かが傷を負った。
稲刈りの男の腕に、見えぬ爪跡。夜道を行く女の頬に、裂けたような線。
それを“鎌鼬”と呼んで、村人たちは“嫁が寂しがっている”と言った。
そして、また供え物を捧げ、血を流して祈った。――それが人柱の始まりさ」
ポン助は顎に手をやり、しばらく黙ったまま風を聞いていた。
「風が止まっても、人が恐れを忘れなかった。だからこそ、風は鎮まらなかったのかもしれませんな」
タツは目を伏せて笑う。
「そうかもしれんね。けど、恐れがなくなれば、この谷は生きていけなかった。
“風の嫁”はな、恨んでるんじゃない。守ってるんだよ。
けれど、時々――思い出すんだろうね。自分が“人”だったことを」
その言葉のあと、風鈴が鳴った。
谷を渡る風が、どこか泣いているような音を立てて過ぎていった。
ポン助はその音に耳を傾け、静かに呟いた。
「……祈りと恐れは、紙一重ですな」
ポン助は頷き、指先で湯呑の縁をなぞった。
「つまり、祈りが恐れに変わったというわけですな」
「そうだよ。風はね、恐れを食べて大きくなるんだ。
だから、あたしたちは祈っても、決して名前を呼ばなかった。
“風さま”としか言わなかった。名前を与えたら、呼んじまうからね」
ポン助は静かに笑った。
「風を呼ぶのは、人の声。風を殺すのも、人の手。……皮肉なもんです」
「まったくだね」
タツはゆっくり立ち上がった。
「けどな、最近の風は違う。あれは鎮めの風じゃない。誰かが、封をほどいた。
風の嫁が、また目を覚まそうとしてる」
ポン助は眉を寄せた。
「誰かが――呼んだ?」
「ええ。風はね、退屈に弱いんだよ。人の寂しさを嗅ぎつけて、遊びに来るのさ」
そう言い残して、タツは杖を鳴らしながら暗がりへと消えていった。
軒の風鈴がひときわ強く鳴り、やがて止む。
ポン助は縁側に独り残り、湯呑を見つめた。
「退屈、ね……。まったく、人も風も似たようなもんですな」
夜の風は、まるで誰かが笑うように、長く尾を引いた。
――村長が倒れた。
沢渡の屋敷に駆けつけた美鶴とポン助の前で、清乃は祖父の枕元にすがって泣いていた。
広間の障子は半ば開け放たれ、冷たい風が紙を揺らしている。風鈴が鈍い音を鳴らし、部屋の空気は生ぬるいようでいて、どこか湿った寒気を含んでいた。
清乃の髪は乱れ、頬は涙で濡れていた。
彼女は庄三の手を両手で握りしめ、震える声で名前を呼び続けていた。
「おじいちゃん……おじいちゃん、目を開けてよ……!」
庄三の唇がかすかに動いたが、声にはならない。
その肌は蝋のように白く、首筋の下で脈が微かに打っているのが、かろうじて命の証だった。
布団のそばでは、村人たちが小声でささやき合っていた。
「急に倒れたって……」「昨日から様子がおかしかったらしい」「祠の祟りじゃ……」
誰も大きな声を出そうとしない。
屋敷全体が、風を閉じ込めたような重苦しい沈黙に包まれていた。
その時、玄関で戸の開く音がした。
「黒岩先生を!」という誰かの声。
すぐに、白衣の裾を翻して黒岩貞次郎が入ってきた。
彼は村人のざわめきを一瞥しただけで無言のまま部屋に入ると、すぐに庄三の枕元へ膝をついた。
懐中時計を取り出し、脈を測る。
掌を庄三の額に当て、まぶたをそっと持ち上げる。
その手つきは驚くほど静かで、しかし容赦がなかった。
部屋の外では風が雨戸を叩くような音を立てたが、誰も動かない。
「……過労だ」
黒岩は低く言った。
「心労が重なっている。外の騒ぎを聞かせるな。静かにしてやりなさい」
清乃はすすり泣きながら顔を上げた。
「助かるんですか、先生……?」
黒岩は答えず、ただ軽く頷いてから、庄三の胸の上に手を当てて呼吸を確かめた。
その目は医師として冷静だったが、どこかに焦りが滲んでいた。
彼の眼鏡の奥に映る庄三の顔が、風に揺れる灯のように青白く揺らめいて見えた。
ポン助は一歩下がり、縁側の方から風の音を聞いていた。
「……風が静かすぎますな」
その呟きに、美鶴が顔を向けた。
「嵐の前、ってやつ?」
ポン助は小さく頷いた。
「風が止まるとき、人の心はざわつくもんです」
障子の向こうで、ひと筋の風が通り抜け、清乃の涙を乾かすこともなく、畳の上で渦を巻いた。
外では、老婆タツが集まった村人を前に杖を鳴らしていた。
「風が、怒っとる! 封印を破った者を喰らいにきおった!」
その目は狂気にも似ていた。
「風は血を求めておる……次は誰になるかわからん!」
村人たちがざわめく中、ポン助は静かに帽子を目深にかぶった。
「血を求めるのは風ではなく、人ですな……」
翌朝――。
谷の風は夜明けとともにひどく冷たくなり、まるで夜の底から何かを引きずり出してくるようだった。
山肌の霧はまだ晴れず、祠のある崖道は白い靄に覆われていた。
その霧の中で、最初に異変に気づいたのは、薪を拾いに来た村の少年だった。
「……だれか、いる……?」
少年が足を止めた先、祠の前の石段に、ひとりの人影があった。
倒れている。
近づくほどに、その白髪が風に揺れ、指先がかすかに空を掴むように伸びていた。
老婆タツだった。
彼女は仰向けに倒れ、目を見開いたまま空を見ていた。
その瞳は、驚きでも恐怖でもなく、何かを見届けた者のような静けさを湛えていた。
唇はわずかに開かれ、声にならぬ音を紡いだまま、止まっている。
風がその口元を撫でるたびに、今も唄が続いているように見えた。
身体には外傷はひとつもなかった。
手のひらは土をかき分けた跡もなく、衣服も乱れていない。
ただ、胸元の小さな袋――祈りの鈴袋だけが破れ、鈴がひとつ、石段の上で転がっていた。
風に押されるたびに、かすかに“ちり……”と鳴る。
祠の前の空気は異様に澄んでいた。
霧が薄れ、光が斜めに差し込み、タツの白髪がその光を受けて銀糸のように輝く。
祠の扉は半ば開き、内部からは淡い香の匂いが漂っていた。
誰かが夜のうちに供えたのか、皿には花弁が一枚置かれている。
どこから聞きつけたか、村人たちの足音が小石を蹴る音とともに近づいてきた。
「おい、タツばあさんが……」
誰かが低く声を漏らすと、他の者たちも恐る恐る集まった。
皆、距離を取りながら、息を詰めて老婆の姿を見下ろす。
「ま、まさか……」
村の若者が手で口を押さえ、目を見開く。
老人たちは杖を握り、石段に腰を下ろすこともできずに立ちすくむ。
誰も声を出せないまま、白髪の老婆の姿を黙って見つめていた。
そのとき、黒岩医師が駆けつけてきた。
白衣の裾を揺らしながら、ゆっくりと祠の前に膝をつく。
手早く脈を取り、額に手を当てる。呼吸を確かめ、目を開けて瞳孔を確認する。
「……死亡確認」
黒岩は低く宣言した。
「外傷はない。恐らく自然死……いや、過労と老衰の重なりだ」
村人の間にざわめきが起こる。
「風の祟りじゃないのか……?」
「まさか、風が……」
誰もが口ごもる。だが黒岩は眉ひとつ動かさず、淡々と周囲に指示した。
「死体は外部に見せる必要はない。庄三の命令だ。運び出せ」
数人の村人がゆっくりと老婆の体を持ち上げ、慎重に診療所の方へ運んでいく。
誰もが黙って従い、祠の前はあっという間に静寂に包まれた。
風はまだ谷を吹き抜けていたが、さきほどの騒ぎの気配は消え、石段の上には誰もいない。
ただ、かすかな鈴の音だけが、残った霧の中で揺れていた。
その傍らに立ち尽くす清乃の姿があった。
頬を涙で濡らし、拳を握りしめている。
その肩に美鶴がそっと手を置いたが、清乃は振り払うように首を振った。
「……おじいちゃんを許してあげて!」
声は震え、霧に吸い込まれていった。
「風の神様……お願い、もう誰も連れていかないで!」
その瞬間、谷を吹き抜ける風が唸りを上げた。
木々が一斉に鳴き、祠の屋根が軋み、空気が裂けるような音を立てた。
地面に残っていた数本のタツの白髪が風に翻り、光の中で一瞬、生きて動いたかのように見えた。
美鶴は息を呑み、ポン助がゆっくりと帽子を脱いだ。
「……風が、唄を連れていきましたな」
祠の奥で、鈴がもう一度――かすかに鳴った。
その日の午後、黒岩は屋敷の応接間で、淡く光る窓の外を見やりながら荷物をまとめていた。
机の上には書類や医療器具が乱雑に置かれ、茶の湯呑はまだ温かさを保っているが、彼の視線はそれらを越えて、谷の向こうの風車施設や霧に覆われた山並みに向いていた。
通りがかった美鶴が声をかける。
「村を出るんですか?」
黒岩は小さく肩をすくめ、鞄の金具を確認しながら淡い笑みを浮かべた。
「ええ、これ以上ここに留まっても、私には何もできません」
その言葉には、理性的な判断だけでなく、村の空気に溶け込んだ恐怖や混乱から距離を置こうとする覚悟が滲んでいた。
「科学では説明できないことも、確かにあるのですよ。
ただ、それを“風の神”と呼ぶかどうかは――信じる側の自由です」
黒岩は最後に窓の外を一瞥し、谷を覆う霧の奥深くまで視線を送った。
手元の鞄を肩にかけ、ゆっくりと立ち上がる。
足音が床を滑るたび、応接間の静寂がほんのわずかに震え、まるで村そのものが彼の出立を見送っているかのようだった。
美鶴の目には、黒岩が本当にこの村から去ろうとしているという印象が強く映る。
そしてその背中は、霧に包まれた谷の風景に溶けていき、まるで誰も触れられぬ影のように静かに消えそうだった。
その頃、ポン助は一人、風車小屋の裏手に立っていた。
夜霧が低く立ち込め、谷全体を薄く白いベールで覆う。足元の湿った土が靴底に吸い付く感触を、彼は無言で確かめながら、一歩一歩静かに動く。
小屋の壁は古び、鉄板の継ぎ目からは微かに油の匂いが漂う。だがその奥に、鼻を突くような刺激的な匂いが混ざっていた。
「……ほう、風が薬くさい」
ポン助は鼻を鳴らし、少し前傾になって匂いの方向を探る。霧が彼の顔にまとわりつき、冷たい湿気が頬を濡らす。
彼の目は夜霧を通してわずかに揺れる風車の影を捉える。羽根がゆっくりと回り、鉄骨に当たる音が遠くから微かに響く。霧の中で、羽根の影が一瞬、彼の背を覆った。
「こりゃ、風を操る方がいるようですな」
口元に微笑みを浮かべ、指先で風を感じるように空気をなぞる。手のひらに伝わる微細な振動から、谷の中の何かが動いていることを察知する。
背後の霧がそっと揺れ、風車の羽根が音を立てるたび、谷の風もまた微かに変化する。
ポン助は一歩下がり、目を細めて周囲を測る。
「匂いだけではなく、痕跡も確かにある……誰かが意図的に風を動かしている」
その瞬間、谷の風が、まるで忍び笑いするかのように彼の耳元をすり抜け、霧の輪郭を揺らした。
ポン助は立ち尽くし、静かに呟く。
「――さて、風の正体を見極めるときですな」
夜霧の中、風車の影と薬品の匂い、谷の湿った空気が渾然となり、ポン助の存在は霧に溶けるように隠れていた。
誰も彼の姿を知る者はなく、ただ谷の風が、静かに笑った。
第伍章:鎌鼬のいたずら(真相編)予告
すべての謎は、風と人の心の狭間に隠されていた。
金田一ポン助は全員を集め、降霊術を装った推理を開始する。
清乃のひと言が真実への扉を開く――。
本物の鎌鼬は果たして存在するのか。
谷の恐怖の結末が、いま幕を開ける――。
■ 登場人物
金田一ポン助(治田笑男)
40代後半の自称霊媒師。どこか人を食ったような態度だが、鋭い観察眼を持つ。
「幽霊の正体は、だいたい退屈した人間ですよ」とよく口にする。
矢崎美鶴
新聞記者。発電計画と村の対立を取材するために同行。
最初はポン助の胡散臭さに辟易するが、次第にその奇妙な洞察に惹かれていく。
沢渡庄三(村長)
風ノ谷村の長。外の力を拒み、風力発電計画に猛反対。
村の古い祠の封印を守っており、「風は人の力で縛るな」が口癖。
村のためを思っているが、頑固さゆえに周囲と対立する。
黒岩貞次郎(医師)
村の唯一の医師。かつて都市部で研究職にあったが挫折し、風ノ谷に流れ着いた。
冷静沈着で、村人からは「理性的な都会の人」として頼りにされている。
柿沼亮介
発電事業の現場監督。理屈っぽく、村人を軽んじる発言で敵を作る。
第1の犠牲者。
祠守り・老婆タツ
村に伝わる祠を守る年老いた巫女。
「風の神を怒らせてはならぬ」と呪文のように唱える。
ポン助を“風を呼ぶ男”と恐れる。
沢渡清乃
村長の孫娘(10代後半)。
幼い頃から“風の声が聞こえる”と語る不思議な少女。
村人たちは彼女を“風の巫女の生まれ変わり”と呼び、避けている。
物語を通じてポン助に心を開き、風の異変を察知するキーパーソンとなる。
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